人生の導きの書をたくさん持つ

お久しぶりです。

最近の考えを書きます。

 

お釈迦様の教えを読んで「なるほど〜」「わかるな〜」と思いつつも、「こうじゃなければ間違っているんだ」とか「私はまだまだ未熟なんだ」と感じることが多いです。「もっと努力せねばなあ」と思っちゃいます。

努力・向上はいいんですが、それで毎日「未熟者!」と自分を苛むのは、あんまり良くないな、と思いました。

私の元々の性格なんでしょう。「そんなに思いつめなくてもええ」と考え直しても、その慰みは他人の言葉なのです。

 

たまに瞑想がうまくいったり、ふとしたキッカケで「無我モード」に入ります。その状態の時は、お釈迦様が言っていることを心底理解でき、心穏やかです。

しかし、日常生活をしながらこれを維持するのは、相当難しいです。

「無我モード」に入るのと同じく、ふとしたキッカケで「よっ」と自我君が出てきます。

筋トレみたいなもので、毎日基礎トレ(思考停止)をやる大変さ+「今日はうまくできなかった」という日もあります。それでも昔よりは心穏やかなのですが、出家でもしない限り「一切皆苦」なのかもしれません。

心とはそういう作りなんでしょう。まだ俗世にいたいから、しょうがないね。

 

「預流果に入ると、仏道が真理と分かって、方向を変えなくなる」と、色々なところに書いてあります。

この「悟りへの階段の話」は、過去記事「コズミック・シャワー」に書いたように、今はあんまり参考にしていないのですが、自分をあえて当てはめるなら「無我モード」を体験してるので「普段は一来、ときどき不還」かなーと考えられます。

でも、お釈迦様の教えを聞くと「まだまだだぁ」と思ってしまう。それで悩んでしまう。じゃあ凡夫なのかって、よくわからないんですね。

で、私が仏教を勉強したり瞑想に取り組んだのは、「この世の真理とは何なのか?」「もうちょっと楽に生きられんかね?」と思った流れからです。

真理が「諸行無常」というので今の所納得していますから、ここはクリアですし、目的は「楽」ですから、そこに行けるなら別に絶対仏教一筋じゃないといけないわけじゃないんですね。

仏教で言ってる「諸行無常諸法無我・苦集滅道」の感覚は合ってると思うので、仏教もいいんですけども、それ以外にもいろいろな参照先があったらクッションになるかなあと、つまり「人生の導きの書」は何冊も持ってていいんじゃないかなぁ、と考えた次第です。

 

まだ若いので、いろいろ試してみようということです。

「やりたいことがない人生」は、誰かに投資すれば「流動性の高い価値」かも?

こんばんは。

 

今までの記事の通り、

「この世には、何も存在しない。ただ全てに完全さが流れているだけだ」

という結論に達したのですが、やはり

「人生の目的」

「一度きりの人生」

といった文言が、頭の中をグルグルです。

 

グルグル…

モヤモヤ。

 

なんとな〜く、「人生を充実させないといけない」気がする。

死ぬときに、「充実させなかったこと」を後悔したら、どうしよう。

でも、そんなことは幻想で、どうでもいいとも思う。

で、ぼんやりと考えていく中で、我ながらいい例えを思い付けたので、記事にまとめます。

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