三白眼ロン毛悪役男が魅力的な理由

「君の言う "かわいい" は、どういう意味なのかイマイチわからない」と何度か言われたことがあります。

 

そう言われてみれば、なるほど私の言う「かわいい」は女の言うそれよりも頻度が低くて生々しいが、男が言うよりはフィクションチックです。

私の無性別的な内面を知る人からしたら、ますます意図が分からない。

しかも「かわいい」と言う対象が、成人した男とか凶悪なモンスターなので、もはや何が何だか理解しがたい。挙げ句、愛らしい小動物への感想は「マ〜↑」とか「太ってないか?」とか「強い」などと歪んでおり、とかく真っ直ぐな表現というのをしたくないらしい。

 

じゃあ私の言う「かわいい」は何なのかというと、軽めにビジュアルや仕草を指すこともありますが、本気で言ってる場合は、その対象の「陰」を見て言ってます。

陰は陽の反対、つまり、ふと見えた悲しそうな目とか、一人で手洗いに入っていく背中とか、何かについて悩んでいるさま、その中で見せる「これを言うのはやめとこう」という作り笑いのような表情……そういう場面を見て「あ、"この人" には、なんとなく可愛さ(と形容される、憂鬱な美)が 漂っている」と感じるのです。言ってしまえば、私にはそういうフェチがあるのだと思います。

私の言う「かわいい」は、「見た目がカワイイ!」と「この人は可愛い所あるなぁ…」の二つがあるのです。

 

そして、そのような哀愁とか物悲しさを感じさせる者といえば、爽やかでない若い男です。彼らの陰の面積は、人の一生の中で最も広いと思えてなりません。

その中でも特に陰だらけなのが、髪が長く、人相が悪く、他人と楽しく過ごす事ができず、頭脳明晰なわけでもない、肉体にも恵まれず、厭世を極めて悪の道に迷い込んでいる…そんな男性キャラクター、ということです。

不健全なのですが、負の感情にはついつい色気を感じてしまいます。

ついでに書いとくと、彼がこのような陰惨さから一時的に逃れている睡眠中、すなわち寝顔というものには、凄まじい「束の間の幸福感」=無力感 が漂っていて、ここまで退廃的で美しい状況があるものか、と唸るほどです。

 

女を本気で可愛いと思うことは、殆どないのです。女たちからは精神的な強さ(おそらく、母性のたくましさ)が感じられて、「見た目がカワイイ」ということが理解はできても、内面から「 "この人は" 可愛いなぁ…」とはあまり思わないのです。

 

苦しみ悲しんでいる男、彼の目に宿る陰惨の深さには限りがない。それを覗き込もうとすると、視線は暗闇の奥へと無抵抗に吸い込まれ、それが延々と終わらないものだから、底が無いように思えてしまう。しかし女のそれを辿ると、なんだか埃がきらきらと引っかかるようで、落ち葉か何かが敷き詰められた、ふかふかの底があるように感じられるのです。

……妙な表現に挑戦しましたが、ようは男の方がウジウジと無限に悩んでいるような印象だ、ということです。

 

改めて思い返せば、男には「可愛い」、女には「かっこいい」と思う回数が多いです。

ちなみに私は男女両方に惹かれるのですが、男でも女でもない人には、同性だという意識が起こるのか、可愛いを含めた色欲的な感情がさっぱり湧きません。面白い現象です。

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久しぶり、おもちゃの世界

瞑想中に新しい体験をしたので、記事を書きます。

かなり抽象的で、怪しく見えるかも?しれませんが、変なことを書こうとか皆さんを騙そうとかは全く思っていないです。

境界線が溶けた

あの世界はいわゆる「禅定」「梵天」ってやつなのか、違うかも分かりませんが、とにかく「別な認識世界」を感じました。

その認識世界には、イス、机、空気など、全てのものの「これは、イスだ」などといった「他のものとは別種の、これがあるぞ」という、モノの境界線がありませんでした。瞑想中は目をつぶっているので、見えていないのですが、自分の体や今いる空間そのものが溶け合ったという感じです。全てが同じ種類のエネルギーとして漂っているような、何も無いのだけど全てがあるような、言語化できないのですが、そんな感じでした。

目を開けてその認識世界から帰ってくると、イスだの机だのが「私はイスだぞ!」「机はこういうものだぞ!」と叫び始めました。ありとあらゆるものの境界線が、無理やり私の認識の中に飛び込んできたのです。「私は、他のものとは別種の、これなんです!」という「境界線の主張」のような圧力を四方八方から受けて、それで「おお、さっきの認識世界は、いつもの世界とはだいぶ違ったな…」と気付きました。

子供の頃の視点

そして、その「境界線がない世界」の余韻がある中で周りを見渡すと、ものの境界線の認識を自分である程度操作できると気付きました。

例えば、ペンケースがあって、その中にはペンが10本あります。この時、「ペンケース+ペン×10」という見方が普通なのですが、意識すれば「ペンケースペンという塊」とか「ペンケース+ペン10という塊+空気の塊」などと、境界線を再構築できることに気付きました。

これに気づいた時、すぐに子供時代を思い出しました。すなわち、子供の頃の「全てがおもちゃに見える」感覚は、このような「ものの境界線が薄い・属性が自由」な認識から来ていたのだろう、と。実際に、そのペンケースは、ペンという木々が入っている寝袋のようにも見えましたし、口を開けたお魚にも見えました。幼稚園児なら、ペンケースを集めて、それらに紙で目玉をつけて「水族館!」などとやるかもしれませんね。

子供の頃はみんなある程度「悟っていた」のかもしれません。それが、年齢と共に知識が増え、すなわち境界線の量も濃さも増えていって、それで「自由な認識」ができなくなっていくのでしょう。

 

デザイナー、アーティスト?絵描き?として、とても貴重な感覚を得られたと思います。

「芸術と安穏は両立しない、困った」と思っていましたが、瞑想にはこういう良い効果もあるみたいです。

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