斬首台のかがやき

物騒なタイトルですが、死にたいとは思っていません。わりと健康です。私はこういう妙な喩えをしたがるのです。こういう文を作るのが趣味なんです。アフィには全く向かないタイトルですね。

 

ここ最近、ちょっと瞑想の出来がよくないです。すぐに眠くなったり、雑念が止まらなかったりでマトモにできません。

そして、自我や執着心が復活しているような兆しがあります。

考えられる理由と、これからの方向性を書いていきます。

 

現代社会で無我を維持するのは難しい

この資本・新自由主義社会で、「私はいない、この世は無常、静寂な心」を維持するのは、かなり難しかったです。もちろん私が未熟だからなのでしょうが、おそらく私に限らず、現代社会で在家だと無我の維持は難しいということです。

何故でしょうか?

それは、この世の中が「無我・無常」とは反対の方向に疾走していて、しかもそれが是とされているからです。

もっと簡単に言いましょう。すなわち、「経済成長で幸せになれる」とか「美味しいものを沢山食べたい」とか「恋人がいるのは素敵だ」などの、安穏とは反対の街道を走る信念が、常識・前提・良い事として、圧倒的多数派として、世の中をすっぽり覆い尽くしているのです。

私たちは社会的な動物で、周りにいる人々や、目にする広告、インターネットの言説…などからの影響は免れません。情報に触れていると、あまりの物量にやはり世の中が正しいように思えてきてしまう。そうなると、いくら「私はいないぞ、全ては変わり続けるぞ」と思っていても、いや、思っていたくても、時に「面白いことをして成長しよう」「恋人がいたらなあ」などの考えを起こさせられてしまうのです。

そして、そういう流れと仕組みで世の中が成り立っていますから、その中で生きるのならば最低限の「成長・発展・幸せ」は追っていかないと(少なくとも、フリをしていないと)取り残されてしまうのです。成り立ちから弾かれると、食っていけない。動物が生きる上での定めです。そして、「追うフリ」をしているうちに、本当に追っていきたいような心境にすり替わってしまうのです。

誰も悪くないのですが、結果として困ってしまいました。

 

恐怖!自我の復活

こうして「もっとああしたい・こうなりたい」などの欲求が起こることで、自我がムクムクと元気を取り戻し、また私を気付かないうちに絡め取ろうとします。

気付くと、もう私は苦しみの中にいたのです。

ああいう人は嫌だ……(不快だ、同時に苦しい!)

あの子が気になる……(楽しい、しかし苦しい!)

成長したい……(ワクワク、そして苦しい!)

……本当は、これらは全て、「私という特別な存在がいる」「この世界には〇〇という価値がある」などの思い込みによる幻想なのです。「この世の全てには価値がない」と覚悟を決めないと永遠に苦しいままだ、と勘づいています。

そうと頭では分かっていながら、生活していく上でどうしても欲求を刺激されて苦しいんです。そういう「成長・発展・幸せ」を追い求めても、安心には程遠いことは分かっている。それでも、足が勝手にそれらの方向に向かってしまう。苦しいのにまるでそれが良い事で、理想的であるかのように錯覚させられるのです。

自我が「オレって一生懸命生きてるなあー!他の奴らとは違うぞ!」と自己満足するために、私を操っている……そのように思えるのです。

 

軌道修正……

短期間に、このような心情の経過がありました。

それでも、かろうじて瞑想自体は毎日続けていました。「無我・無常」「穏やかな気持ち」という道もボンヤリと残っていて、大きく逸脱はしないで済みました。

それはまるで、大海原に投げ出されてドンブラコッコ……と漂う私に、灯台の光が遠くからうっすらと届いているようでした。

うっかり、また大海原に投げ出されてしまいました。こうして漂っていると、「やはり、お釈迦様の言うことを、ちゃんと聞こう」という風に思えてきます。そうしなければ、苦しみの根っこ=自我を無くすことは、難しいように思えてきたのです。

軸がないと、迷える私は世の中に流されてしまうのです。だったら、ひとまず軸につかまります。灯台の光を目指して、陸を目指そうと思います。何も考えないでお釈迦様に着いて行くのが、果たして正しいのか、という疑問は晴れませんが、このまま流されて元通りになるよりは全然いいです。

しばらく真面目に瞑想しようと思います。

 

自我、こわい、こわい。

あっ、お寿司、こわい、こわい。

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夢と幸福 (ドーナツと餃子)

書きます書きます。

このテーマは前ブログ時代から考え続けているのですが、ようやく考えがまとまってきました。

タイトルがちょっと変ですが、「普遍的」という意味です。

夢自体はいいけれど……

「夢があるのは素晴らしい」「夢を叶えるためには〇〇という習慣が大事」「夢破れたものたち」……

この世の中は、「夢の素晴らしさ」に夢中です。夢が叶うのは素晴らしい、夢のために頑張るのは立派だ、夢が叶えられないのは悲しいことだ。そういう教育を受けてきたから、そう思うんです。そして、実際に「夢を叶えた人」はインタビューに笑顔で応え、それをテレビで見た少年達は「ぼくもああなりたい」と願い、それを聞いた先生や親は「良いじゃない、頑張りなさい」と言うのです。

それは良いのです。やりたければやればいい。夢自体はいいんですが、考え方の問題で、「夢を叶えれば幸せになれる」とか「幸せとは努力で勝ち得るものだ」という風に、そこに幸せを結び付けているのなら、かなり苦しむ人生になってしまいます。

 

「幸せ」はただの感覚であって、ご褒美ではない

夢を叶えて幸せになる人々がいる一方で、特に夢らしい夢を叶えなくても幸せそうな人々がいます。例えば、ヤンチャしてたヤンキーが落ち着いて、妻子思いの良いパパになった、なんてのは最も分かりやすい例ですね。彼は宇宙飛行士でもプロ野球選手でも漫画家でもない、よくいる大工さんだったりするのですが、Twitterで奥さんや地元のダチへの感謝を表していて、だいたい楽しそうです。

なんで彼らは、「夢」を叶えなくても幸せそうなのでしょうか。

それは、元々「幸せ」になる条件として「夢を叶える」は入っていないからです。単純なことです。

「幸せだなあ」というのは、ただの感覚です。自分の感じているものに対する反応です。そこに、夢とか努力とか地位とかお金とか、そういう条件は何もありません。「こういう時は幸せだと思うのが常識だから、幸福感を出す」というものではありません。

それがこの世の中では、幸せがやたら「素晴らしいもの」とか「貴重なもの」みたいに扱われるので、「まさかこれで幸せなんて言ってちゃダメだろう」と思ってしまうのです。

自分が幸せかどうか決めるのは自分であって、世の中ではありません。夢というハードルを飛び越えたら幸せというゴールテープを切れる、というのは都市伝説です。

では「小さな幸せを探す」のが良いかというと、それもまたおかしな話です。精神的にまいっている時の応急措置として「今日あった良いことの数」を数えるのはいいですが、そうでもなければ、わざわざ「小さな幸せを探す」必要はありません。何も「それらしきもの」を探さなくても自分勝手に幸せだと思えるのに、そういう啓発本で著者に解説してもらってまで「私って幸せだったのよね!」と頑張って思おうとするのは遠回りです。わざわざ「著者認定の小さいハードル」を持ってきてもらって、自分がその他人のハードルより大きいことを確認しています。これは「夢が叶えば幸せなんだ」と構図が同じであって、しかも自分のハードルやゴールテープを著者に決めてもらっています。気晴らし程度にはなりますが、おすすめはしかねます。

理由がなくても、他人がどうであっても、当人さえ「なんか、いいかんじだなぁ」と思えば、何も確認しなくてもそれでその人は幸せですし、思考停止で幸せだと感じていいんです。

その点、学校に行かなかったヤンキーは変な常識に染め上げられていないので、あるがままの「幸せだな」を感じやすいのかもしれません。

 

「夢を叶えるのは良いことですよ」と言ってるのは誰か

それは、夢を叶えた人です。当たり前といえば当たり前です。夢があって、その実現のため頑張って、結果叶った。その体験について「良いものだよ」と言っている。何も問題ありませんね。

ただ、その人が夢と幸せをくっつけて語っている場合は、ちょっと危ない。彼は非常に「頑張って」夢を叶えて「幸せになったぞ」と思っているのですが、一方では「あまり頑張らなくても幸せな」人々がいる。そうなると、その頑張り屋さんは「楽して幸せだなんてウソだ!俺の努力は何だったんだ」と感じてしまいます。だから夢と幸せをくっつけて、自己肯定します。あいつらの幸せは偽物の幸せで、劣った幸せで、そう思い込んでいるだけなんだ。俺は努力して夢を叶えたから、本当に幸せなんだ、と。

何を隠そう、私が過去にそういう感覚を抱いていたので、分かるのです。まあ夢は叶えていませんが、何かと「頑張る子」だったので、ヤンキーに怒りを覚えると同時に憧れた時期がありました。

しかしながら、そういう他人を妬むような気持ちが強く湧いてくる時点で、彼はそんなに幸せではない。幸せより妬みとか怒りが前に出ているのですから、単純にそういうことです。

 

夢と幸せは別のこと

夢は、叶えたかったら叶えれば良いですが、無理して叶えなくてもいいですし、夢がなくてもいいんです。それは各々の自由です。成功してもいいですが、挫折でもいいですし、平坦でもかまいません。ただ、夢を追う人をバカにしたり、夢がない人を見下すこと、これが良くないんです。

別の話ですから、「夢が叶う、しかし、幸せではない」という式と同様に「夢が叶う、かつ、幸せである」という式も成り立ちます。ドーナツがおいしいのと、餃子がうまいのは、特に関係ありません。その関係と同じです。だから、夢に幸せをくっつけている人がいたら、ドーナツと餃子をごちゃ混ぜにしていますから、あまり影響されない方がいいかもね、ということです。

 

 

今の世の中では「夢」や「幸せ」が必要以上に唱えられ、崇拝されています。自分の人生をその雰囲気に捧げてしまうことがないよう、気をつけましょう。

悪役三白眼ロン毛が魅力的な理由

(2017.8.17 追記)もうちょっとまともなのを書きました。

 

「君の言う "かわいい" は、どういう意味なのかイマイチわからない」と何度か言われたことがあります。

 

そう言われてみれば、なるほど私の言う「かわいい」は女の言うそれよりも頻度が低くて生々しいが、男が言うよりはフィクションチックです。

私の無性別的な内面を知る人からしたら、ますます意図が分からない。

しかも「かわいい」と言う対象が、成人した男とか凶悪なモンスターなので、もはや何が何だか理解しがたい。挙げ句、愛らしい小動物への感想は「マ〜↑」とか「太ってないか?」とか「強い」などと歪んでおり、とかく真っ直ぐな表現というのをしたくないらしい。

 

じゃあ私の言う「かわいい」は何なのかというと、軽めにビジュアルや仕草を指すこともありますが、本気で言ってる場合は、その対象の「陰」を見て言ってます。

陰は陽の反対、つまり、ふと見えた悲しそうな目とか、一人で手洗いに入っていく背中とか、何かについて悩んでいるさま、その中で見せる「これを言うのはやめとこう」という作り笑いのような表情……そういう場面を見て「あ、"この人" には、なんとなく可愛さ(と形容される、憂鬱な美)が 漂っている」と感じるのです。言ってしまえば、私にはそういうフェチがあるのだと思います。

私の言う「かわいい」は、「見た目がカワイイ!」と「この人は可愛い所あるなぁ…」の二つがあるのです。

 

そして、そのような哀愁とか物悲しさを感じさせる者といえば、爽やかでない若い男です。彼らの陰の面積は、人の一生の中で最も広いと思えてなりません。

その中でも特に陰だらけなのが、髪が長く、人相が悪く、他人と楽しく過ごす事ができず、頭脳明晰なわけでもない、肉体にも恵まれず、厭世を極めて悪の道に迷い込んでいる…そんな男性キャラクター、ということです。

不健全なのですが、負の感情にはついつい色気を感じてしまいます。

ついでに書いとくと、彼がこのような陰惨さから一時的に逃れている睡眠中、すなわち寝顔というものには、凄まじい「束の間の幸福感」=無力感 が漂っていて、ここまで退廃的で美しい状況があるものか、と唸るほどです。

 

女を本気で可愛いと思うことは、殆どないのです。女たちからは精神的な強さ(おそらく、母性のたくましさ)が感じられて、「見た目がカワイイ」ということが理解はできても、内面から「 "この人は" 可愛いなぁ…」とはあまり思わないのです。

 

苦しみ悲しんでいる男、彼の目に宿る陰惨の深さには限りがない。それを覗き込もうとすると、視線は暗闇の奥へと無抵抗に吸い込まれ、それが延々と終わらないものだから、底が無いように思えてしまう。しかし女のそれを辿ると、なんだか埃がきらきらと引っかかるようで、落ち葉か何かが敷き詰められた、ふかふかの底があるように感じられるのです。

……妙な表現に挑戦しましたが、ようは男の方がウジウジと無限に悩んでいるような印象だ、ということです。

 

改めて思い返せば、男には「可愛い」、女には「かっこいい」と思う回数が多いです。

ちなみに私は男女両方に惹かれるのですが、男でも女でもない人には、同性だという意識が起こるのか、可愛いを含めた色欲的な感情がさっぱり湧きません。面白い現象です。

久しぶり、おもちゃの世界

瞑想中に新しい体験をしたので、記事を書きます。

かなり抽象的で、怪しく見えるかも?しれませんが、変なことを書こうとか皆さんを騙そうとかは全く思っていないです。

境界線が溶けた

あの世界はいわゆる「禅定」「梵天」ってやつなのか、違うかも分かりませんが、とにかく「別な認識世界」を感じました。

その認識世界には、イス、机、空気など、全てのものの「これは、イスだ」などといった「他のものとは別種の、これがあるぞ」という、モノの境界線がありませんでした。瞑想中は目をつぶっているので、見えていないのですが、自分の体や今いる空間そのものが溶け合ったという感じです。全てが同じ種類のエネルギーとして漂っているような、何も無いのだけど全てがあるような、言語化できないのですが、そんな感じでした。

目を開けてその認識世界から帰ってくると、イスだの机だのが「私はイスだぞ!」「机はこういうものだぞ!」と叫び始めました。ありとあらゆるものの境界線が、無理やり私の認識の中に飛び込んできたのです。「私は、他のものとは別種の、これなんです!」という「境界線の主張」のような圧力を四方八方から受けて、それで「おお、さっきの認識世界は、いつもの世界とはだいぶ違ったな…」と気付きました。

子供の頃の視点

そして、その「境界線がない世界」の余韻がある中で周りを見渡すと、ものの境界線の認識を自分である程度操作できると気付きました。

例えば、ペンケースがあって、その中にはペンが10本あります。この時、「ペンケース+ペン×10」という見方が普通なのですが、意識すれば「ペンケースペンという塊」とか「ペンケース+ペン10という塊+空気の塊」などと、境界線を再構築できることに気付きました。

これに気づいた時、すぐに子供時代を思い出しました。すなわち、子供の頃の「全てがおもちゃに見える」感覚は、このような「ものの境界線が薄い・属性が自由」な認識から来ていたのだろう、と。実際に、そのペンケースは、ペンという木々が入っている寝袋のようにも見えましたし、口を開けたお魚にも見えました。幼稚園児なら、ペンケースを集めて、それらに紙で目玉をつけて「水族館!」などとやるかもしれませんね。

子供の頃はみんなある程度「悟っていた」のかもしれません。それが、年齢と共に知識が増え、すなわち境界線の量も濃さも増えていって、それで「自由な認識」ができなくなっていくのでしょう。

 

デザイナー、アーティスト?絵描き?として、とても貴重な感覚を得られたと思います。

「芸術と安穏は両立しない、困った」と思っていましたが、瞑想にはこういう良い効果もあるみたいです。

ニヒリズムから瞑想へ

突然ですが、私は仏教徒ではありません。

新しいブログを開いていくつか記事を投稿しましたが、なんとな〜く仏教っぽい箇所が多いですね。空とか無常とか。誤解があるかもしれないと思ったので、今回の記事を書きます。

 

仏教の目指すところは、煩悩からの解脱……いわゆる「悟り」だと、ネットで聞きました。瞑想修行で悟りを開くと真理が分かって、この世への執着が無くなるので、輪廻の苦しみを終わらせられる…ということのようです。

それはそれで良さそうです。そして私は瞑想をしばらく続けています。ただ、「仏陀を信じて解脱のために修行をしている」のではないのです。

ニヒリズムの向こう側

私が仏教に興味を持ち、瞑想を始めたのは、つい最近のことです。何がキッカケだったかというと、「唯識」という仏教の考え方を知って非常に納得したのです。唯識をざっくり言うと、「ただ感覚だけがある」みたいな考えです。

私は元々考え事をする性格で、仏教を知る前にニヒリズムに到達していました。「全ては、ただそうである」と。そして次のステップとして、「そうである、と感じている "自分" はいるのか?いないのか?」という疑問が生まれていました。これがモヤモヤ、うまく説明出来ない感覚だったのですが、それを「唯識」が大体説明してくれたのです。

その「唯識」について調べていくと、これは仏教だということが分かり、そしてその教祖の仏陀は大昔に実在した人だと知りました。歴史の教科書で出てきた、ゴータマ・シッダールタさんです。

大好きな納得、論理と体感の世界

修行の末、最初に悟りを開いたゴータマさんは、悟りについて色々説明しています。その発言などをまとめているサイトがたくさんあったので、ひとまず読み漁りました。

そこで知った無我とか無常という話は、非常に筋が通っていると感じました。そして、その (一見、破滅的にも見える) 教えを知り、心底ホッとしたのです。仏教紹介サイトを作っている人がうまく説明してくれたのもあるかと思いますが、とても納得できたのです。私は「納得」することが大好きで、納得するために考え事をしていると言っても過言ではないのです。

かくして、私は「ゴータマさんすげぇ!とりあえずこの人の言う事は聞こう!」と思ったのです。

まずは、とりあえず瞑想を始めました。「この世は無常なのか〜(?)」「私はいないのか〜(?)」と、最初はゴータマさんの言う事がぼんやりとしか分からなかったのですが、実践して体感するものだという事はなんとなく分かったのです。

瞑想をしばらく続けていたある日、頭の中が からっぽ というか 何も考えていない…しかしそれが100%のような?文章化し難いのですが、とにかく「おっ?」と「全部消えた」「思考が生まれそうになっても "ま、いいか" と消えていく」瞬間が、急に訪れました。瞑想しようとして、胡座で目をつぶって、頭に浮かぶ考え事を外に流していったら、突然頭の中が静かになりました。その時の体感で、「無常」とか「無我」ということが、理解できたのです。

この面白い体験から覚めると、以前より心が穏やかになっているのに気付きました。

先生、マイペースでもいいですか

こんな感じで「いい感じの体験」ができて、以前よりも心穏やかになれたので、ひとまず瞑想を続行しているのです。

瞑想中、なんとな〜く「おっ、こっち側の感覚が良さげだぞ」と感じることがあります。「こっち側」というのは、これまた説明できないのですが、なんとなく「次のステップ」を感じて、そっちに近づきたくなるのです。体感欲とでも言いましょうか。

「悟り」にはステップがあるという話もあるので、その「次のステップ」は悟りの階段のことなのかもしれません。

ただ、「仏教が正しいから悟るために頑張る!」と思ってはいないのです。私の目的は「楽になる、幸福になること」であって「悟ること」ではありません。 

実際やってみたらゴータマさんの言う通りだった、悟った、仏教が正解だった、って場合は考えられますが、まあそれは体感したら分かることですから、今決めなくてもいいでしょう。

ですから私は仏教徒ではありません。かっこつけた言い方だと「リトル・フィロソファー (小さな哲学者)」です。ただ、ゴータマさんの言うことには相当納得できるので、ひとまず言うことを聞いています。

 

そんな感じで、あまり「悟るぞ」などとは思わず、瞑想を続けて「次の良い感じのステップ」を待とうと思います。