自分のこれからについて考えるの巻

みなさんこんばんは。

だいぶ間が開きましたな。

今回は瞑想や仏道は関係のない、ふつうに「どう生きようか?」みたいな事考えます。自分用メモ感は否めない。

あと、試験的にいつもより改行を頻繁に入れてみます。読みやすそう。でも、それだとこの明朝スタイル合わないかな?

 

私は何か良くない感情...たとえば依存心、嫉妬心、など...が現れてきた時、「自分の心を改善せねば!」と直感的に感じます。

自分という人間をもっと"良い感じ"に変えてみたいと、なんとなく思うのです。多分、「ここが改善したら、どんな感じがするかな?」という好奇心です。

自分の精神はもっと高みに...いやいや、まだマシに変われるはずだ、もっと快適な精神で在れるだろう、ということで、しょっちゅう「あっ!依存心だ。これは人生において重要な問題なので、しっかりと向き合うべきだ」「あっ!嫉妬心だ。どういう仕組みで発生しやがるのか、確かめたい」...などと、いろいろ思うわけです。

で、いろいろ考えるのですが、結局「最終的に行きたいところ」が分からないことには、改善のしようがないんじゃないかと、ふと思ったんですね。

私自身のことを省みても、あっち行ってみたり、こんなことしてみたり、とフラフラなものです。「手当たり次第にチャレンジしたい」という結論が出てそうしているのなら良いですが、無意識でフラフラなのは非効率なだけですね。

「改善」と一言で言ってもなんとなく意味がありそうですが、「なんとなく良い感じ」というのでは「世間一般に評価される方」という意味です。それでは困りますね。

これも、「世間一般で最高に評価される者になる」と結論付けて目指すのなら何も問題ないですが、なんとなく「改善した〜い」は無意味です(アンタ今までの記事で散々「この世の全ては無意味です」って言ってるじゃん、というツッコミは承知しています)。我々の人生の目的は、そんなしょうもないことではありません。

せっかく人間に生まれてきたんだから、もうちょっと自分の頭で考えたいですよ。

というわけで、「私が最終的に行きたいところ」について、書いていこうと思います。

もちろん、いつもと同じく「現時点での」考えです。私の人生は、おそらく(理想的には)あと2/3程度残っているので、その中で目標が変わるのは何ら不思議ではありません。

 

どんな生活を送りたいか

いきなり「どんな人間になりたい」という話をするのは、ちょっと抽象的すぎる。

ということで、具体的イメージのしやすい「毎日の生活」にスポットを当ててみようと思います。頭の体操、ウォーミングアップですね。

といっても、急には出てきませんでした。そこで、もっと書きやすい事から考えます。

ずばり「どんな生活は絶対したくないか?!

これなら書けますよ。

  • 仕事ばっかりで、趣味や遊びの余裕がない
  • 配偶者や子供や親の面倒を見続けて余裕がない
  • 配偶者や上司にボコボコにされる
  • 有名人としてチヤホヤされる、いつも褒められる
  • 毎日、喜びに満ちたキラキラの文章や作品を発信する

下二つは良い事のようですが、私は嫌です。

さて、嫌な事が分かったので、これをヒントに「ぜひしたい生活」を考えていきます。

  • 趣味や遊びの時間がちゃんとある。仕事自体はしてもいい
  • 周りには、自分をボコボコにしてくる人がいない
  • 邪悪な文章や作品を作り、基本放っておかれ、ときどき褒められる
  • 週に2-3回は、回転寿司に行く

こんなところですかね。

これらを達成するやり方については、最後の方でまとめて考えようかと思います。

「嫌な生活」2番目の「配偶者・子・親の面倒見続ける」の反対は「独身で、親へ援助はしない」ですが、これはちょっと難しい。というのは、結婚や子育てというのが人生において最大の勉強になるであろう事は想像に難くないし、「自分の老後の金は自分で用意してください」とはいっても、養育費、特に専門学校の学費を出してくれた恩はあるわけで。学費を出させておいて全く還元しないというのはどうかと思います。

過去記事「情熱を分析するカエル」で書いたように「複数の欲求が戦っている状態」です。「独身は快適そうだが(楽に生きたい)、結婚や子育てで勉強したい(人生の学びがしたい)」と、「親の面倒見たくないが(金銭的にも精神的にも楽でありたい)、見ないのは道義的にどうかと思う(義理ある人間でありたい)」ですね。

更に、結婚と親は大人同士の話ですからともかくとして、子供については「自分が勉強したいから」という理由で育てていいものか、という問いが残ります。

配偶者にしろ子にしろ親にしろ、自分ではないのでコントロールはできません。コントロールできないことによるリスクを重く見て色々やめるのか、その不確定さやリスクを受け入れた上で覚悟して行くのか、この辺の判断をこの記事の最後らへんで定めていきたいところです。

一般的に「どんな生活がしたいか」といったら、「どんな土地に、どんな家を建てて、年収はいくらで、車は何で、どんな仕事して」というのがくっついて来るかな?と思いますが、私はそのへんはあまりこだわりがありません。強いて言うなら、チルボドのライブに行ける距離で、チルボドのライブに毎回行ってポケモン新作買える程度の年収、、、それぐらいですね。移動のしやすい借り家がいいと思ってますし、車もあんまり興味がない。それより精神面の安定を求めます…あ、家の中に虫が出るのは怖いです。

 

人生に何を求めているか

これは難しいですねぇ。いきなり「オリジナルな答え」は出せません。

そこで、参考としてタロットカードから抜粋+@して、いいかんじの単語から探そうと思います。

自由、旅、遊び心、個性、独創的、もの作り、楽しさ、出会い、発見、直感、挑戦、ロマン、恋人、結婚、子供、家族、信じる、愛嬌、協調性、社交的、人情、友情、希望、金、腕力、実力、権力、自信、行動力、決断力、完璧、理想、プライド、正義、誠実、対話、理解する、広い心、客観的、中立、マイペース、純粋さ、賢い、分析力、思考力、知恵、好奇心、問題解決、節制、忍耐、辛抱、努力、成長、慎重、安定、安心感

だいぶ出てきましたねー

さて、この中から、とりあえず「いいっすね」と感じるものを10個選んでみますよ。

自由、発見、行動力、正義、誠実、広い心、中立、思考力、好奇心、成長

ちょっと迷いましたが(最初18個選んだ)、こんな感じになりました。

おおっ、なんか、ぼんやりと見えてきましたね。私が人生に求める雰囲気が。

文章に直しますと、

好奇心を持って自由に行動し、思考によって発見・成長。誠実で広い心を持ち、正義と中立を守る。」みたいな感じです。

自由人、ゴーイングマイウェイウェイ感ありますね。うぇ〜い

でも、これちょっと覚えにくいですね。3つぐらいには絞らないと、指針とするには複雑すぎます。ということで3つに絞ってみます。

正義、広い心、成長

今度はすぐ選べました。これなら、日常生活の中でも指針にできそうです。

で、表題の「人生に何を求めているか」という表現に合わせると、

「人間として正しい行いをすること」

「他者の失敗や、異なる価値観を受け入れる心を持つこと」

「人生を通じて人間的に成長すること」

ということになりますね。

上二つには、見えない目標「(その結果、人々から感謝される)」とかがくっつく気もします。これは自分ではコントロールできないので、もしかすると目標に据えるべきではないのかもしれません。まあ、やってみますが。

あと、これまで出ませんでしたが、冒頭のように依存心や嫉妬心を改善したいと思うことは、つまり「弱い心が少なく、精神的に安定していること」も実際に目指したい姿なんですね。

悪くないと思うんで、とりあえずこれらを一つの指針にしてみようと思います。

うーむ、言う事だけはイケメンだなあ。

 

どんな人間になりたいか

前項で出た「指針」を具体的な行動に直せば、「なりたい人間」が導かれますね。

  • 「人間として正しい行いをする」

困ってる人がいたら助ける。誠実である。

  • 「他者の失敗や、異なる価値観を受け入れる心を持つ」

相手の話を否定せずに聴く。他人を責めない。

  • 「人生を通じて人間的に成長する」

成長できると踏んだことにはチャレンジする。

  • 「弱い心が少なく、精神的に安定している」

己の弱さと向き合い、原因を探って対処する。

 

いいやつそう(KONAMI)

今から意識付けできることなので、さっそくやってみます。

でも、なんか無理があったりしたら、一旦止めたりするでしょう。 

 

 で、何すれば近づけるのさ?

ここ肝心ですね。


前の方に書いた「ぜひしたい生活」を達成し…

  • 趣味や遊びの時間がちゃんとある。仕事自体はしてもいい
  • 周りには、自分をボコボコにしてくる人がいない
  • 邪悪な文章や作品を作り、基本放っておかれ、ときどき褒められる
  • 週に2-3回は、回転寿司に行く

前項までで導かれた「人生に求めていること」「なりたい人間」に近づく…

「人間として正しい行いをする」
→ 困ってる人がいたら助ける。誠実である。

「他者の失敗や、異なる価値観を受け入れる心を持つ」
→ 相手の話を否定せずに聴く。他人を責めない。

「人生を通じて人間的に成長する」
→ 成長できると踏んだことにはチャレンジする。

「弱い心が少なく、精神的に安定している」
己の弱さと向き合い、原因を探って対処する。

 

…ん?

 

結構ハードル低くない?

 

いや、だって「ぜひしたい生活」は正直、最後の回転寿司以外は現状で達成されてるし、、、

人生に求めていること」「なりたい人間」についても、そんなに難しいことではないですね。日々の積み重ねで人格を育てる話で、でかい目標に期限を設けて向かうわけではない。

 

とはいえ、目標が低いことは、決して悪い事ではないと考えています。

目標を立てる理由は、嫌な言い方ではありますが「幸せになるため」ですね。そしてその幸福感は、状況や立場や所持金ではなく、単にその時の満足感で出ます。

結果的に精神が足りるんだったら、目標の高低は関係ないんじゃ?と思うわけです。

周りと比較して劣等感を煽って、そこで初めて足りなくなるのです。

たとえばコーヒー屋に行って、私はSサイズで十分足りるので毎回Sサイズですが、そこで「いやお前、大きい方が安上がりなんだからLにしようよ」と言いますかね。どうせ残して「もったいない事だ。すいません」って思いながら捨てるんだから、じゃあやっぱりSの方がいいじゃないですか。私はSサイズで十分に満足しているのですから、そこをわざわざ外していく意味はありません。

金や権力はあるだけ良いかというと、そうでもないでしょう。金があるからと、身の丈(自分の感覚)に合わない生活レベルにすると変な感じでしょうし、「病気になったら」「医療が発達して寿命が延びたら」と考えれば、いくらあっても死ぬまで足りません。どこかで「そろそろいいか」と満足する線引きが必要です(が、金の話になると、これが中々できない)。権力も、あればあったでその座を「守るか、奪われるのか」という話になってきてしまいます。

ただ「私がどう生きようか?」という話ですので、いややっぱり目標は高い方が良いよとか、努力自体が大事だよという方は、私の言う事は無視して自分の考えに従ってください。

 

まあ、今は学生さんなので、実家で甘ちゃんやってる所もあります。これが社会人になって自立すると、案外この「ぜひしたい生活」をするのは難しいのかもしれない。その結果、精神的余裕が少なくなって「人生に求めていること」「なりたい人間」に向かう事も難しくなるのかもしれない。

そりゃ、なってみないとわかりません。環境が変わるとどうなるかは未知数です…あ、回転寿司屋さんが近場にないとキツイですね。

最初の方で書いた「リスクを避けるかどうか」という話は、この感じだと「成長が見込め、道義的にも間違っていないなら、チャレンジ!」という方向性になりそうですね。

 

「〜な気がします。」とか「〜なのでしょうね。」みたいな締めの言葉を引用の後にくっ付けただけのキュレーションサイトは困るんですが、ブログだとこういう曖昧なこと書いても自由なんで良いですね。

はい、今回はこんな感じで。

そういうわけなんで、いろいろ意識してみようと思います。

とはいえ、途中にも書きましたが、合わないとか考えが変わるとかで止めることは、大いにありえます。

まあ適当に。そんでは、おやすみなさい。

コズミック・シャワー

こんばんは。

必殺技みたいで綺麗なタイトルですね。内容とは、関係がないようで微妙にあります。(こんなんばっかだな)

何があったかというと、先日のゲリラ豪雨です。世界のお終いを感じるほどの様子でした。強すぎる風で木々の葉が真横に流れ、滝の中にいるような雨が叩きつけ、家の中から覗いただけでも結構ショッキングな光景でした。

その豪雨が去った後、私は夕食を食べに自転車で出掛けました。

自転車で走っている時、新しい境地を感じたので、つらつらと書き残します。

いつもと同じく、信じないでくださいね。

 

凄いことが起こっているぞ

自転車でしばらく走り、交差点でふと周りを見渡すと、その光景が非常にクリアに見えました。

ものの色が鮮やかで、立体感が強く感じられ、空気が真空であるかのように澄んでいる。とても綺麗でした。

雨の後の夜で、辺りはもう暗いし、雨の後の匂いが充満していたのですが、そういう「見え方」を無視して「ものの本当の輝き」のような、本質のようなものがダイレクトに感覚として届いている、そんな感じでした。

自転車を漕ぎながら、どこからともなく、ふと思いました。

「そうか、私は人間として生まれてこれたんだ。理由は分からないけど、今ここに私として感覚が起こっているんだ。どういうわけだか分からないけど、何か凄いものによって私が成り立っているんだ」

「今ここに存在している!」「さっきの今ここにも存在できたが、また、今ここにも存在できている!」と感動して、全身の細胞が喜んでいるように感じました。とにかく生きようという力、どこからともなく湧いてくる根源的な力を感じられて、いつもより自転車を漕ぐスピードが上がりました。

同時に、「人間に生まれてこれた」ということが、もう、ものすっっっっっっごい有難いことだと直感しました。

人間に生まれてこれたのは、奇跡を何百回重ねても足りない、どれだけ恩に報いようと善行を重ねようと返しきれない、ものすごいことだった。しかも今まで親がちゃんと育ててくれて、大病はせず、大きな地震や事件にも巻き込まれず、現代に生まれたおかげで不当に裁かれもせず、おかげさまで生きている。しかも、哲学している。もう本当に凄い。凄すぎることだと気付きました。

こんな圧倒的すぎる最強の奇跡を頂けて、それで「生まれ変わったら〇〇になりたい」とか「イケメンに生まれたかった」なんてのは、めちゃくちゃ贅沢なことだと感じました。こんな奇跡中の大奇跡は、何度も起こるもんじゃありません。この人生が終わったら、それで終わり、来世は無いでしょう。私という肉体が死んだら、この身体は土に還り、精神的な「存在しているということ」は「何かすごい成り立ち」の中に還って、ただ流れる気のような存在になるんだと思います。来世があったとしても、ホコリとか波とかじゃないでしょうか。また人間だったらどんだけ運いいんだ……宝くじ一等が連続で100回当たるより凄いことです。

何で人間に生まれたのが有難いかというと、人間はこういう風に哲学や修行ができるからです。芸術もできます。何の因果か分かりませんが、とにかく私は人間として地球に生まれさせてもらった。それは勉強とか経験のためかな?と思いますが、人間以外のものに生まれてしまったら、哲学はできません。広い宇宙のどこの誰として生まれるかランダムで、その中で地球の人間ということに生まれることができた。これはもう、マリオで例えるとコインしかないボーナス部屋みたいなもんです。素敵な景色を眺めながら勉強ができる、最高の境遇です。

 

「私」は、大いなる存在の子供なんだ

さっきから、「私は〇〇です」という言い方は避けて書いています。「△△として」とか「成り立ち」とか書いています。どういうことでしょうか。

このブログで何度か書いていますが、「私」という存在が、最初から自力で成り立つわけはないのです。何か巨大な、大いなる存在によって、なぜか成り立たせてもらっている。なぜか私の肉体と周囲の空間がちゃんと分離されているように感じられて、なぜか私の意志というものがあるように感じられる。

「大いなる存在」という単語は誰が考えたのか知りませんが、とても秀逸です。あえて言い換えるなら、「宇宙の女神」とか「すべての仕組みの素」とかになるでしょうか。いや、やっぱ「大いなる存在」が一番分かりやすいな。

「私が、私の人生を、自分で選んで生きている」のではない。そのように感じられるけれど、それはそう「感じるだけ」で、主体というものは実在はしません。そうだと感じているが、実在はしない。「大いなる存在」の気のような流れが、何かの拍子で人間や空気や犬や何やかんやとして、境界線を携えて現れている。

全て「なるようにしかならない」のです。全ては、大いなる存在の中。もし大いなる存在が崩れたら、すべては「気」に還るでしょう。「今この瞬間」が、私の知りえない仕組みによって、永遠に更新されていく。その流れは、誰にも動かせない。それを人間の認知機能で振り返ると「運命」と呼ばれる。その運命の中には、「運命を変えること」や「『なるようにしかならない』を否定すること」も含まれます。

「私」と呼ばれるこの存在は、仮象であり、「大いなる存在」の欠片が蜃気楼のように見えている、そんな状態です。いわば、「大いなる存在」の、無数の子供のうちのひとりなのです。

 

聖者のふりをしなくてもいいんだ

さて、私という現象は、「大いなる存在」という大きなお母さんから生まれたようです。「人間のお母さん」はいますが、彼女は肉体のお母さんです。大いなる存在は、「(仮象として)存在しているということ」のお母さんです。魂、から一段階概念を上げた感じです。

なんだか理由は分からないけど、まだ私という存在は生きているようです。私という存在は、大いなる存在に支えられている。私という存在は、大いなる存在に許されている。「ryomaちゃん、ここにいていいのよ」ということです。やったあ。こうなると、もう自分は自分でいいんだなという気持ちになります。

仏教についていろいろ読んだり調べたりして、悟りとはどんなものだろうとか、お釈迦様の教えとは何だろうとか、考えることがありました。ホームページやブログ記事や本が沢山あって、それぞれに語られている悟りの内容が違うし、その中身もいまいちよく分からない。でも「大いなる存在」に「ryomaちゃん、いてもいいのよ」と許されていると分かったら、そういった「仏の道を極めるべし!」というような方向性が、崩れ去っていきました。

ひょっとしたら、これが悟りの状態なのかもしれない、というかアウトローな悟りなのかもしれない、いやいや未だに預流向なのかもしれない、もはや凡夫なのかもしれない。ですが、そういう階段のお話は、なんでもよくなってきました。あれあれ?

ま、いいじゃん。今はこんな感じだけど、また「仏の道極めるべし!」って思うことになるかもしれないし、ならないかもしれないし、それもまた広い意味での運命なんだろう。肉体が死んだら、大いなる存在のお腹に還るんだと思います。

瞑想をしているからといって、仏教の本を読んだからといって、聖者になろうとしなくてもいいのです。私は私でいいのです。

 

感情も煩悩も、まだまだあるぞ!

現在、瞑想や仏教の勉強を始めて約3ヶ月半というところです。

感情や煩悩は(まだ?)あるのですが、それに囚われることはかなり少なくなりました。

「嬉しい」「悲しい」「怒った」、その感情自体は湧いてきます。ただ、その量が少なくなりました。また、それらの感情を少し味わい、場合によっては少し周りに発表したら、「ま、これ以上わざわざ気分を盛り上げて味わっても、なんにもならないな」ということで、感情を流せるようになりました。短ければ数秒、長くても30分あれば治まります。感情が一過性の幻影だと知ったので、いちいち大事そうに構わなくなったのです。でも、感情は出ますし、それで一時的に苦しんだりもします。

欲もあります。お寿司が食べたいとか、ああしたいこうしたい、こうなったら良いなあ、という欲望ですね。欲望は感情とは違って「ある」の次に「する」が発生するのですが、私の場合は瞑想前もそんなに欲深いわけではなかったので、これについてはそんなに「変わったな」という感じはしません。少し気持ちの波が穏やかになったな程度です。

全然自我が死んでいません。上で「私は仮象だ。大いなる存在の蜃気楼だ」とか言いましたが、感覚として一回分かっていても、やっぱり普通に生活しているので「私が生活しているぞ!」という感覚にはなりがちです。ただ、これも「あっ、でも本当は何も無いんだよね」と、頭というか心でセーブをかけている感じではあります。

ついでに、思考を停止することができるようになりました。それは「あんまり考えない」とか「ぼーっと考える」ではなく、「     」という状態に、意図的に切り替えることができるということです。この無思考状態は、小さい脳みそ時代=子供時代が思い出される感覚です。とても心地好く、穏やかで平和で、同時に鋭敏で、しかもすっきりとした、そして仄かに嬉しい感覚なのです。

 そんなわけで、今までの話を無理やりまとめますと「子供の頃の感覚を思い出した」という感じです。同時に「子供の頃にあるはずだった感覚を取り戻した」とも言えるでしょう。

 

正直なところ、「悟るってどういう感じなのかなあ」「私は悟りの階梯のどのへんにいるのかなあ」などと、結構気になっていたのですが、今となってはその階梯の話は結構どうでもよくなりました(バチが当たる?でも多分、お釈迦様は優しいから、バチじゃなくて諭してくださると思う)。

よく悟った人達?の書いている「自分と周りが一体化する・同じだった」というのも、いまいちよく分からず。多幸感もそんなにすごくはないし、波動とか引き寄せ効果は無いみたいだし、自分のやってる瞑想はこれでいいのか、よくわからない。

「阿羅漢になったら出家せざるをえない」という話も、理屈に納得はしたのですが、「それはある意味逃げなんじゃないか?世俗の中でどうするか考えるんじゃなくて、過ごしやすい環境に移住する方向でいくのか?」とも思ってました。

疑ってばっかですねえ。これでは預流果にもなってません。過去記事で一来果?不還果?とか言っていたのが、恥ずかしいところです。

 

で、これから私はどうしたいかというと、少なくともしばらくは「一般人」として、世俗で普通に生活しようと思います。酒も人間関係もライブも、やりすぎると負担になるのですが、我慢はせずに楽しみます。人間の勉強になると思います。芸術活動もします、時には感情を呼び出してもいいと思ってます。自我や大いなる存在を、観察します。俗世間的な歓楽を避けはしませんが、積極的に享受もしません。自然体でいきます。

同時に、瞑想も続けます。これは、「少しなら」と感情や自我を出していると、いつの間にか取り込まれてしまうのが分かりきっているからです。自我の牢獄から戻ってくるのは大変ですし、そうでなくても瞑想や無思考状態はリラックスでき、集中力の強化にも繋がります。

そういうことなので、ひょっとするとこのブログのメインテーマであった瞑想の気づき関連の話は、しばらく出てこなくなるかもしれません。こればかりは、未来になってみないと分かりませんね。

ではでは、おやすみなさい。

【自己紹介】ryoma について

こんばんは〜。

最初はTwitterのフォロワーさんしかお客さんがいなかったこのブログですが、検索やはてなからも見てくれる方ができたので、自己紹介を描き…いや書きます。

「書く」と「描く」をどっちもよく使うんで、変換でどっちが先に出るか予測不能なのです。 

スペック

※自画像です

HN       ryoma (りょうま)

誕生     1993年春

性別     FtX (後述)

血液型    +AB

性格類型   INTP-A 参考:“論理学者”型の性格 (INTP-A / INTP-T) | 16Personalities

職業     専門学生

出身     鹿児島生まれ、埼玉育ち

趣味     ヘヴィメタル、絵、ポケモン、哲学、旅

これまでのあらすじ

こんばんは!私はryoma。こうして元気に挨拶できるのが、ありがたいよ。

というのも、人生の序盤で「女」と「良い子」に絡め取られてしまってね。

ひどい憂鬱に飲み込まれてしまって、ずっと寝ていたこともある。

でも「メタル」と「哲学」が、その状況を切り裂く力をくれたんだ!

おかげさまで、今ではけっこう元気にやっている、というわけだよ。

趣味について 

ヘヴィメタル

Children Of Bodomが大大大好き。チルボドの4thアルバムHate Crew Deathrollで救われたオタク。チルボドをきっかけに全てが変わったのです。

そんなわけでCOBをブッチギリのダントツNo.1最強バンド扱いしているが、もちろん他のバンドも聴く。エクストリームなメロデスメロスピ寄りシンフォ、プログレ系スラッシュらへんがツボ。基本的に疾走系、メロディがかっこいいのが好み。

初メタルは安心と信頼のフォーザーキーンことRhapsodyのEmerald Sword。

 

好きなバンド▶︎ Children Of Bodom / Rhapsody  / Battlecross / Parasite Inc. / Ebony Tears / Edge Of Sanity / Darkest Hour / Kamelot / Megadeth / Nirvana / Vektor / キバオブアキバ ...など

物心つく前からなぜか描いていた。幼児の頃は、紙と鉛筆を与えておくと留守番がよくできたらしい。

当然というべきか漫画アニメゲームで育ち、その影響を受けて現在の作風となる。

とはいっても、「私の画風はこれ!」というのは恐らく無い。描くたびに毎回どこかしら変わるし、変えるし、固定する気もなし。

好きな色は濃い青、理由はクールな顔して強そうなのがかっこいいから。

好きな画家は、北斎、巴水、富弥、ドレ、メビウス鳥山明など…つまり線画や余白がキマってるとイイらしい。うーん日本人だ。

ポケモン

物心シリーズその2。本編プレイ歴は、緑 - ピカチュウ - 金 - クリスタル - サファイア - リーフグリーン - エメラルド - パール - ハートゴールド - ホワイト - ホワイト2 - Y - アルファサファイア - プラチナ - サン。なんとなく「かっこわるいと思った方」を買っている、ひねくれ者。

ポケモンというコンテンツの中では対戦が特に好き。コンボや天候でゴリ押したり、好きなポケモンを無理やり突っ込む、エンジョイ寄りのスタイル。メインルールはトリプルでした...スイッチ版で復活してくれぇ。

一番好きなポケモンクロバット、以下モクローズルズキンエンニュートキリキザン…という感じ。基本ワルそうなやつが好きだけど、モクローちゃんは凄まじい丸鳥なので別枠。

哲学

物心シリーズその3。誰に言われるともなく、なぜか延々と考え続けている。

今年の4月くらいから瞑想をしていて、だんだん「この世は完全で、同時に虚無!」という感じの感想になった。

欲が更に薄くなったおかげで、現代資本主義社会についていけない疑惑がある。

このブログがある理由。

たまに、時間と金が許す範囲で一人旅に行くことがある。

遠い場所で独りになることで、己の無力さを実感できるのだ。コミュ力や度胸もかなり上がったぞ。ライブのために行くことも多い。

国内も海外も行く。一人で行った場所は、関東+新潟+東北+北海道(北日本一周)、名古屋・大阪(ライブ遠征)、富山(黒部ダム)、鹿児島(祖父母の家がある)、台湾(台北九份)、ドイツ(ケルン)。

性格・考え方

言われたことがある性格

冷静沈着、真面目、しっかり者、情熱的、行動力がある、イタズラ好き、のんびり、ひねくれ者 など…

優しいとか協調性というよりは、我が道を独りでも行くぜ的なタイプなのだろう。

 

考え方

  • 自分の頭で考える(が、自分はいない)。
  • この世に絶対的な基準や決まりはない。
  • 全ての人間は、人間なので無知だ。
  • 世の中は数の大小でできている。

…など。

絶対的な決まりはない!という絶対的な信念がある(矛盾?)。

性別の話

FtXとは

Female to Xの略。「女性からXへ」という意味。

生まれてきた身体の形は女性だけど、自分の心が女性だとは思えない、だからといって男性だと思っているわけでもない人。ryomaの状態。

「心が」というのは、性格や趣味趣向や見た目がではなく、「私は人間である・男である・女である」といった「自分は何者なのか」という問に対しての、その人の率直な答えのこと。君は何者だい?

心が男女のどちらとも言い表せない、既存の単語で率直に表せる概念ではない、同じXと名乗る者同士でも人によってわずかに違う…などの理由で、さまざまな心の性別を便宜的にまとめて「X」と表しているのだ。

 

ryomaの性別

生まれてきた身体の形は、偶然にも女性だった。しかし、気付いた時から、現在と同じ「男でも、女でもない」感覚だった。

普段の格好は、モノクロ基調でシンプルな、性別を感じさせない服 + アクセサリー少々。ライブの時は、見るからにメタラーな格好。主にユニクロに面倒を見られている。髪は短く、基本黒髪…だが、「社会人になるまでにやっときたいこと」として、最近赤メッシュを入れた。

女性として扱われても男性として扱われても、どうもしっくりこない、自分が常に変装していて勘違いをされているような感じがする。私の性別を無理やり分類するとしたら、「無性」が近い。

人を好きになる時に性別は関係なく、女性を好きになったこともあるが、傾向としては男性の方に惹かれやすい。偶然か必然か、ちょっと女々しい雰囲気の男性に安心感を覚えやすい。ある意味対極だが、別の意味では似ているからだろう。

ひとこと

このブログに私が書いていることは「私の思ったこと・考えたこと・感じたこと」です。普遍的な真実や一般論を書いているわけではないことをご留意ください。

また、読んでくれている方々に色々な考え方を眺めてほしいので、このブログの記事はほとんど本音です。本音ですが、しばしば意見が変わるのが私です。

ひねくれ者なので、全然人々の共感を呼ばない、変なことばかり言っているブログになるかと思いますが、それでいいと思ってます。

それでは、よろしくお願いします。

ヒトの不幸な構造

※過去記事「どこからでも無い眺め」の前に書いていた記事です。時間の流れが投稿順序と合いませんが、記録として投稿します。

 

学校で、かなりの攻撃性に遭遇してしまいました。怒鳴り声です。
そこで己に起こる反応を観察し、人間という生物の造りをチラッと見たように思えたので、書き残します。

けっこう仏教用語が出てきますが、よく分からなければ、そこは飛ばして読んでもかまいません。

論旨は「感情というものは、その構造で私たちを不幸にする」です。

 

動物的な働き

自分は毎日「この世は無常だなあ」と感じているのですが、それでも攻撃性に晒された時はアドレナリンというものが出てきました。

怒鳴り声に身体が本能的に反応して、脳内物質が放出され、それによって血流が速くなったり、しばらくすると腹部が痛んだりしました。

ずっと食べないと腹が減ったり、息をしないと苦しくなるのと同じように、危険があると判断されるとアドレナリンが自動で出てきて、身体が臨戦態勢になるみたいです。

……とはいえ、私はまだ「完全に悟った」わけではないので、もしかしたら阿羅漢の人は怒鳴り声にも反応しないのかもしれません。

ただし、仏教の研究者である藤本晃氏著「悟りの階梯」によると、「阿羅漢の状態になった人は、日常生活に耐えられないので、出家してしまう」のだそうです。これが本当だとすると、阿羅漢の人は経済生活が「耐えられなくて」出家する、つまり、「快・不快」という感覚はあるみたいです。

「感情に囚われるのが鬱陶しい」「欲望を満たすことに興味がない」ということで、感情や欲を催す空気からは離れようとしているのではないかと思います。予想ですが……。

 

人間の本能

さて、怒号に揺れる己の反応を観察していると、人間の持つ欲望というのは同時多発的に起きているのだと分かりました。「攻撃したい」「平和でいたい」「認められたい」など……。

しかしそれらの欲望は、ディテールは違えど根本的には同じ場所から湧いてくるのだとも感じられました。

全ての欲望は、「生きていたい」という、生物の根源から湧き出るところから派生しています。

生きていたい、つまり死にたくない。そのためには、安全な場所にいたい。であれば、危険は排除したいし、仲間がいるといい……こんなふうに、「生きていたい」を起点として、欲は無限に分岐発生していきます。木のようです。

そして、起きた出来事に反応する「欲の枝葉」は特定の1つではありません。その出来事が枝葉に引っかかった何ヶ所もで、それぞれの欲を刺激します。出来事が大きいと、触れる枝葉の量も増えます。同時に満たせない欲が同時刺激されると、理性が出てきて調停します。

このへんの話は、過去記事「情熱を分析するカエル」も見てみてください。

この欲の木を、いろいろな出来事の起こる経済社会に持ち込んでいくと、色々な枝葉がバンバン刺激されます。
現代は資本主義、競争社会かつ平和主義です。競うのは良いことだが争いはダメで、体を動かしてないのに戦ったことにして、競争しながら仲良くしなければいけません。器用にやっていると思います。

そんな時に、事故的に誰かが怒鳴ったりしたのを聞いてアドレナリンが出ると、もう大変です。アドレナリンが出るだけでなく「自分も我慢してるのに」という思考まで沸き起こります。

肉体が臨戦態勢になったら、もちろん戦いたいのですが、人間社会ではなかなか戦えない。肉体が物理的に欲求を起こしてきても、「安定して生きたい」という欲求があるので、止まるのです。それほどまでに、我々の「安定して生きたい」という本能はすさまじいのです。

そうして起こるような怒りとか攻撃性は、仕事とか芸術で「昇華」している(らしい)のです。

 

感情と経済社会の反比例な関係

人間は感情を持つ生物です。共感もします。だから、仲間が死ぬと悲しい。悲しいから、「なるべく死なないでほしいな」と思います。そこで「死なないためには、どうしたらいい?」と考えます。

最初は生贄とかお祓いなど迷信的なこともしていますが、しばらくすると、医者や薬が出てきます。病院や予防接種や出生前診断まで出てきました。現代社会です。

さてさて、この現代社会では、感情は抑圧されています。他人が感情を炸裂させると自分が傷つくから、自分も感情をコントロールする。ギブアンドテイクというか、自分が平和であるために、自分も我慢しているという状態です。「感情をちゃんと出したい」という欲望とのバトルに平和主義が勝った人が多いから、全体としてはそうなっているのです。

そこで感情を我慢しない人が出てくると、「感情で刺されて怖い」だけでなく「自分たちは我慢しているのに」という思いまで出てきて、その我慢しない人は「困った人」扱いになります。

もし感情を我慢しない社会になったら、ちょっとしたことですぐ殴り合いが始まります。毎日犯罪だらけの、危険な世界になります。味わうまでもなく「平和が一番」と思います。

結局何が言いたいかというと、人間の持つ感情というシロモノは、その構造によって私たちを「完全な幸福」には導かない。あっちを立てればこっちが立たずで、必ず、何かしらの不幸を味わうようにできている。

何かいいことがあったら「ルンルン気分」になりますが、折れ線グラフでいって、ずーっと右肩上がりっぱなし、ということはありえない。「あの時はよかったな」「でも今はそうでもないぞ」という状況になります。そこで「もっと強いルンルン気分になろう!」というのは、明らかに破綻の道を辿っていますよね?「もっと」の次は「もっともっと」で、それも達成したら「もっともっともっと!」になってしまいます。そして、感情とか欲望とかいうのは、そういう風に「もっと」欲しがるようにできています。

であれば、感情や欲望に固執しないよう練習するのが賢明です。「もっともっと」を止めて「ほどほどで満足」するのが、大きな脳みそを持って生まれた人間の仕事だと思います。

感情が起こるのは仕方ないとして、それを保存したり醸成しても芸術以外の役には立たない。幸せとは、単なる幸福感のことであって、社会的ステータス=幸せ度ではありません。

...とはいえ、私はまだ感情いっぱいの欲界でも色々学んでみたいな、という気持ちです。

 

悟りの階梯を逆戻り?

過去記事「心の水面」を書く直前に体験した、圧倒的な穏やかさ、あれは今思えば不還果だったのかなと思います。短期間でしたが、欲も怒りもさっぱりない、未練もない、微笑みの状態でした。

ですが、この記事を書いていた時はどうだったかというと、けっこう頭の中を思考が駆け回っていました。一来果か預流果に戻って来たのかなという感じでした。

この記事を書いた後、しばらくちゃんと瞑想をやって、「どこからでも無い眺め」の新感覚を体験しました。

思うに、俗世にいる限りは、感情の爆発や自己啓発に触れてしまった時、脳が「前の感じ」に戻ろうとする。脳が戻ろうとしているのには気づけるので、それを観察した後、再び無に帰ろうと思って帰って来れましたが、出家でもしない限りは「悟りの階梯」を多少前後というか昇降することはあるんじゃないかと思います。

一度預流果以上になった人が凡夫になるのは想像し難いですが、一来果や不還果の人が一段下がるのは、個人的な体験としてもありえそうです。

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稚拙な思考と独りよがりな感情

街を歩いていると、いろいろな情報に出くわします。

それらの情報は、目や耳を通して脳に届き、認識される。すると心に印象が起こる。そしてその印象によって、無視したり笑ったり怒ったり考えたり…と反応します。

 

瞬間的な思考の稚拙さ

中には、不快な情報もあります。そういうのを見ると、反射的に「なんだこれは?こんなのは、〇〇で、△△だから、ダメだ。これを作った奴とは関わりたくない…なんたらかんたら」というような、もっともらしい思考が、瞬間的にババババーと脳を通り過ぎて行きます。

思考という現象について何も疑いを持たない状態だと、こうして湧いてきた思考に囚われます。頭を乗っ取られます。

たったの1秒にも満たない視覚情報、そこからポッと湧き出た「ん?」が、脳内で過激な排斥運動にまで発展していきます。

思考というのは「瞬間的にババババーと」無意識に起こってしまいます。これは元がそういう造りのようなので、仕方ない。練習すれば「あっ、色々考えているな」と気づくことができるようになりますが、最初は自動で思考が流れていきます。自分の経験や他人からの影響やテレビで見た話、それに気分などを乱雑に掛け算して、答えモドキを出している。しかし、私たちはそれを正しいように感じてしまう。

私達が瞬間的に思考する時、理性的に、論理をもって「きちっと正確に計算している」のではありません。自分のバックグラウンドと適当に掛け算して、なんとなく「うまいこと計算した気になっている」だけなのです。

 

私には分からないこと

こうして「答えモドキ」を出した私は、頭から放出される悪い感情に支配されます。排斥運動をしたくなります。私の頭の中では、その不快なもの・またはそれを作った者は、糾弾されて当然という地位に格下げされているのです。その格下げが正当なものだと、私は強く錯覚するのです。

ですが実際には、私の「答えモドキ」は「私の個人的なバックグラウンドを元にした、ただの一人の妄想の産物」に過ぎません。
その不快なものや、不快な作者の意図するところについては、私は知る由もないのです。

全く見ず知らずの他人が、私の知り得ない意図で作った、私宛ではないモノに対して、勝手に怒ったり喜んだりしているわけです。そして、そういうモノがこの世の中には無限にあります。

 

残念なお知らせ

怒ったり喜んだりしても、そのモノの内容が変わるわけでもないし、作者に氷水や花束が落ちるわけでもない(そんな評価システムがあったら面白いけど)。残るのは、私やあなたの心の不快感のみです。

どれだけ気合を入れても、訴えかけても、みんなが自分と同じ感性にはなりません。世の中に「絶対的に正しいこと」もありません。そうでありながら、感情というのは、自分の中では絶対的なものです。とにかく、なぜか、確固たるものがドンドン湧き出てきてしまうのです。これをそのまま泳がせて外部の世界と衝突させると、合ったり合わなかったりで非常に疲れるのです。芸術家とか哲学者なんかは殆ど合わないんじゃないでしょうか(だから自殺してしまう)。

1つ解決しても、すぐに次の問題が目に付きます。イライラや悲しみが収まることは永久にないでしょう。

何かを解決するのはいいんですが、その時感情に振り回されていては自分が持たないのです。

 

イライラは尊いものじゃない

といっても、目をつぶって街を歩くわけにはいかないし、耳も閉じられません。

じゃあどうすれば「排斥運動」をせず、無駄なエネルギーを使わずに済むかというと、情報を受け取るのが避けられない以上、その情報にいちいち反応するのを止めればいいですね。

…と、言うのは簡単ですが、最初はなかなか難しい。技術的にもですが、まず大きな心理的抵抗があるのです。

すなわち、私達の感情というものが、とても美しくて尊い宝物のように見える。確かに美しく見えるのです。そのように「見える・感じられる」ことは、間違いない。

もう「感情は美しい」と確信しているのですが、冷静に眺めてみれば、本当に美しいのかは非常に怪しい。見た目が抜群に良い性悪な人のような感じです。パッと見素晴らしいものに見えるが、私たちを惑わせ苦しめてくる存在です。時々すごいワクワク興奮することを囁いてくれますが、ムスッとすることも多く、キレたり泣きわめくこともある。私たちはそれをイチイチなだめなければいけません。

「見た目はいいな」と思うだけならいいですが、「こんなに美しいんだから、中身も美しいはずだ。私に良い影響を与えてくれるはずだ」というのは、ただの思い込みですね。恋していると、その人がどんなに性悪でも「その不完全さが美しい」とか思ってしまいますので、感情に恋しないうちに「感情は、見た目の良い性悪みたいなものだ」と認識したほうが自分のためです。もう感情に恋しちゃってる人は、瞑想して覚めたほうがいい。

恋してる時に「冷静になれ」なんてのは無理なのですが、とりあえずここに「覚めなよ」という看板は立てておきます。感情にうんざりしてきたら、覚めようとしてみてください。

 

聡明な無を見てみよう

言い方は悪かったですが、そういう激しい存在とは至近距離で付き合わないほうがいいでしょう。芸術で利用するには便利ですが(でも、そんな器用なことはできないと思われる)、いつも隣に置いておくと大変なのです。身も心も財布もクタクタになります。ロックスターは得てして自己破壊的なのです。

といって、いきなり感情をポイッと捨てるのは無理です。感情は、私たちに「感情は貴重で美しいんだぞ」「自分がいないとあなたはダメだから」などと上手いこと言って、なんとか振り向かせようとしてきます。困りましたね。

ですが、あなたは新しい人を見つけます。無常さんです。とても穏やかで聡明で、自分を傷つけない、一緒にいたい存在です。

無常の穏やかさが分かったら、「感情に付き合わされても、意味ないな」ということが根本的に分かります。ここまできたら、もういくら感情が色々訴えてきても「はいはい」という感じです。

 

感情を止めるなどと聞くと、なんとなく「人間じゃなくなってしまう」ような感じがするかもしれませんが、それはイメージです。「ワタシハ アンドロイド」のような感じにはなりません。むしろ、自然と同一になれるような心持ちなのです。