常識の代弁者

「自分の考え」と「正しいこと、常識、良い考え」が混ざって溶けて、自分がなくなっていたんだろうな、という話。私の体験談のようなもの。

(ここで言う「正しい」とは、少年時代の私が、周りの人やテレビや本などを見聞きして「筋が通っていて、平和・平等な感じがして、納得しやすい」と思ったこと。また、その時期に主に父親に教わったことである。この時点で変、「正しいの定義」という問題になるが、今回の記事はそこではなく「自分本来の存在が"正しさ"という思い込みによって弱っていった」という出来事について書く。)

「正しいこと」「秩序が整うこと」それによって「物事がスムーズに進むこと」が良い事…そういう感覚、思い込みがあった。

(今はそれを取り壊している最中だ。)

こんな思い込みにもとづいて、学校をリタイアするまで、私はいわゆる「論破」をしたがっていた。「正しい」道筋や思考回路をみんなに分からせてやり、より「良い」生活にしたかった。そんなの当然できないことだったけど。

そのためには、「正しいことを伝える」「自分の話に説得力を持たせるための(正しい)振る舞いをする」のが手段となる。

理想とする「正しい」を意識するうちに、その前にあるはずの「自分の考え」「自分がしたいこと」「自分」がどんどん無いことになっていったのだと思う。

多くはないけど友達はいたし、学ぶこと自体は嫌いではなかった。でも学校生活が心底つまらなかった。何の理由もなく就かされた嫌な仕事のようだった。この生活をマシにしたくて、変えたいと思ったのかもしれない。

そうして、そんなことを続けていたら、16歳の夏に私はダメになった。

少年時代に習慣づけられた意識は、簡単には変えられない。「常識の代弁者」のような言い方をして、友達を攻撃してしまったこともある。

人間関係は、どちらが正しいか、どうなのか決めるために戦うことではなかった。理由は何であれ一緒にいたい人と一緒にいるためのことだった。

この自分の考えが、本当に「自分の考え」であって「常識の代弁」になっていないか、言い方が「代弁者」になっていないか、私は特に気をつける必要がある。

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