リリース・ザ・バタフライ

アダルト・チルドレンと、「責任」についての話。

アダルト・チルドレン(以下AC)についてよく知らない方は、ざっと調べてからの方が、誤解なく読み進めることができると思う。

記事カテゴリは「考えたこと」だけど内容としては「自分のこと」。

AC関連の書籍やサイトには、次のような一文が多く書かれている。

「あなたは悪くない。親のせいにして良いのだ」

これが、今でも腑に落ちない。

これで癒される人々もいるかもしれない。それは良い事だ。しかし私においては、癒しのような感情は起こらなかった。何故だろうか?

これは私にとって、過去の自分の責任を認めないことだからだ。言い換えれば、自分は責任を持ちえないほどの無力だった、と認めてしまうことだからだ。

「責任感のある子だ」と言われてはいたが、その責任はどこから来ていたのか?

「"自分の"行動によって、何かが起こった」ということをきちんと実感したかった。

人の言うことに従い、その通りのことが起こったのでは、私はただの人形である。人形だった。

自分のもろもろ良くないものを、親のコントロールによる影響のせいにする。責任は親に行く。…私の人生の最初の20年くらいを、どぶに投げるような気持ちになる。

生きるとは、自分のことに自分が責任を持つ、ということなのかもしれない。それならば、「自分に(も)責任があった」という方向の方がいい。それを受け止めた上で、許す方向にいきたい。

自分の行動が積み重なって、今こうある。そう考えると、これからは自分のために自分が動こうという気持ちになる。これは「癒し」に近い、またはその一部のような気がする。ACの目標であり、最終的な癒しとなる「自分を愛する」には、こんな気持ちも含まれているのかもしれない。

書いていてなんとなくバタフライ・エフェクトを思い出したので、このようなタイトルにしてしまいました。かっこいい。