ニヒリズムから瞑想へ

突然ですが、私は仏教徒ではありません。

新しいブログを開いていくつか記事を投稿しましたが、なんとな〜く仏教っぽい箇所が多いですね。空とか無常とか。誤解があるかもしれないと思ったので、今回の記事を書きます。

 

仏教の目指すところは、煩悩からの解脱……いわゆる「悟り」だと、ネットで聞きました。瞑想修行で悟りを開くと真理が分かって、この世への執着が無くなるので、輪廻の苦しみを終わらせられる…ということのようです。

それはそれで良さそうです。そして私は瞑想をしばらく続けています。ただ、「仏陀を信じて解脱のために修行をしている」のではないのです。

ニヒリズムの向こう側

私が仏教に興味を持ち、瞑想を始めたのは、つい最近のことです。何がキッカケだったかというと、「唯識」という仏教の考え方を知って非常に納得したのです。唯識をざっくり言うと、「ただ感覚だけがある」みたいな考えです。

私は元々考え事をする性格で、仏教を知る前にニヒリズムに到達していました。「全ては、ただそうである」と。そして次のステップとして、「そうである、と感じている "自分" はいるのか?いないのか?」という疑問が生まれていました。これがモヤモヤ、うまく説明出来ない感覚だったのですが、それを「唯識」が大体説明してくれたのです。

その「唯識」について調べていくと、これは仏教だということが分かり、そしてその教祖の仏陀は大昔に実在した人だと知りました。歴史の教科書で出てきた、ゴータマ・シッダールタさんです。

大好きな納得、論理と体感の世界

修行の末、最初に悟りを開いたゴータマさんは、悟りについて色々説明しています。その発言などをまとめているサイトがたくさんあったので、ひとまず読み漁りました。

そこで知った無我とか無常という話は、非常に筋が通っていると感じました。そして、その (一見、破滅的にも見える) 教えを知り、心底ホッとしたのです。仏教紹介サイトを作っている人がうまく説明してくれたのもあるかと思いますが、とても納得できたのです。私は「納得」することが大好きで、納得するために考え事をしていると言っても過言ではないのです。

かくして、私は「ゴータマさんすげぇ!とりあえずこの人の言う事は聞こう!」と思ったのです。

まずは、とりあえず瞑想を始めました。「この世は無常なのか〜(?)」「私はいないのか〜(?)」と、最初はゴータマさんの言う事がぼんやりとしか分からなかったのですが、実践して体感するものだという事はなんとなく分かったのです。

瞑想をしばらく続けていたある日、頭の中が からっぽ というか 何も考えていない…しかしそれが100%のような?文章化し難いのですが、とにかく「おっ?」と「全部消えた」「思考が生まれそうになっても "ま、いいか" と消えていく」瞬間が、急に訪れました。瞑想しようとして、胡座で目をつぶって、頭に浮かぶ考え事を外に流していったら、突然頭の中が静かになりました。その時の体感で、「無常」とか「無我」ということが、理解できたのです。

この面白い体験から覚めると、以前より心が穏やかになっているのに気付きました。

先生、マイペースでもいいですか

こんな感じで「いい感じの体験」ができて、以前よりも心穏やかになれたので、ひとまず瞑想を続行しているのです。

瞑想中、なんとな〜く「おっ、こっち側の感覚が良さげだぞ」と感じることがあります。「こっち側」というのは、これまた説明できないのですが、なんとなく「次のステップ」を感じて、そっちに近づきたくなるのです。体感欲とでも言いましょうか。

「悟り」にはステップがあるという話もあるので、その「次のステップ」は悟りの階段のことなのかもしれません。

ただ、「仏教が正しいから悟るために頑張る!」と思ってはいないのです。私の目的は「楽になる、幸福になること」であって「悟ること」ではありません。 

実際やってみたらゴータマさんの言う通りだった、悟った、仏教が正解だった、って場合は考えられますが、まあそれは体感したら分かることですから、今決めなくてもいいでしょう。

ですから私は仏教徒ではありません。かっこつけた言い方だと「リトル・フィロソファー (小さな哲学者)」です。ただ、ゴータマさんの言うことには相当納得できるので、ひとまず言うことを聞いています。

 

そんな感じで、あまり「悟るぞ」などとは思わず、瞑想を続けて「次の良い感じのステップ」を待とうと思います。

 

広告を非表示にする