孤独であって孤独でない

暗示的な夢を見ました。

どこか暗い駐車場のような場所で、家族から私が去っていく、見つからないように遠くへ行く……という内容でした。

その夢の中では、何故か弟が手助けをしてくれました。

詳しい意味はよく分かりませんが、なんとなく勘づくものはありました。

 

最初からみんな孤独

「無我・無常」ということは、よくよく考えると「自分だけでなく、みんなもいない」ということです。

姿を目で見て、声を耳で聞き……五感を通して認識できる世界の中では、私も・みんなも、確かにいます。しかし本当は「私」とか「キミ」などの境界線は実在しません。それは五感(六感?)で感じられるだけのものなのです。あらゆる属性付けは全て幻影、ごっこ遊びのようなものです。

しかし「幻影です」と頭では分かり、言葉にしていても、実際に徹底するのは難しい。なぜならそれには、この世の全てと「さよなら」する、という覚悟が要るからです。

全てと「さよなら」するというのは、死ぬということではありません。新たに生死という境界線を引くのではなく、「元々何もなかったんだ」と思い出すことです。脳を使う作業なので、死んでしまったらできません。

何をするかというと、認識の転換です。あらゆる「私の大事な大事なものたち」、例えば好きな食べ物、趣味、友人、家族……などに対して、全ての属性をなくし、すべて幻影だとする。一生をひっくり返すようなことです。

なんとなく悲しいような雰囲気ですが、同時に「元からそうだったんだろうな」という諦めのような気持ちもあります。

 

でも、成り立ちの中で一緒にいられる

さて、元々我々は、何も持たずに生まれてきて、何も持たずに死んでいきます。何も持たないのに生まれてこれて、手ぶらでも終わりを迎えられるのは、なにか大きな成り立ちに支えられているからです。その不思議な成り立ちがなければ、誰も存在できません。心身ともに解けてしまいます。

成長過程でだんだん自我が芽生えますし、大人になれば色々なものを手にしますが、それらは成り立ちの中での作用に過ぎません。「私の人生を、私が生きているんだ」とか「俺が苦労して手に入れたんだ」などというのは錯覚です。全て巡ってきただけの借り物であって、死ぬ時には成り立ちへ返します。

ですから、全てと「さよなら」といっても、それは一人ぼっちという意味ではありません。常に孤独なのだけれど、大きな成り立ちの中でいつも全てが繋がっている。周りに全てがいるとわかった上での「属性にさよなら」なので、むしろ無限に友達が現れます。

ただ、人間として生きているうちは個人的な感覚になってしまうので、「さよなら」も個人的な感じ=もう会えない、みたいなニュアンスに思えてくる、それで何となく悲しいのです。


こうして考えたことや感じたことを言語化していく最中に、また新たな段階に入っているような気がします。納得が深まって、発展するような感じです。

 

バンドはほぼ宗教?

以下はオマケ的な話です。

穏やかな気分で歩いていて、ふと「あっ、チルボドがいなかったら、何も未練が無い…」と思ったことが2回あります。こういう内容の記事にまでバンドを出張させるのかって感じですね。

私には生きる力が無かった時代があるのですが、チルボド(Children Of Bodom)というメタルバンドの曲を聴いて、あまりにも感動して生きる気力が湧いた、という過去があるのです。

現在もまた別の意味で生命力が薄いのかもしれませんが、それは自ら選んだこと。当時は選択の余地なく、生きるのが億劫だったのです。そこを、チルボドが崖から拾い上げてくれたような感じなのです。

ですから、チルボドには強い恩義を感じていて、尊くて頭が上がらない。彼らのCDを買って、ライブに行って、グッズを買って、布教すれば、彼らに恩返しができたことになるのだろうか、それとも、いちファンが恩返しなどおこがましいのかもしれない……などという考えまで起こっていて、ここを抜かしては死にきれない、ここだけは待ってくれ、という感じなのです。

彼らも幻影だ、音楽も単なる音の羅列だと分かった上でも、それでもまだ見ていたいのです。

お釈迦様にはついて行こうかと考えていますが、チルボドのリーダーであるアレキシも命の恩人だと思っています。
なんか、文章化するとすごいですね。