心の水面

印象的な瞑想をしました。その後ここ数日間、心の様子がいつもと違うので、書き留めておきます。

正直、かなり……怪しい内容してると思います。でも、事実です。ただ、だからといって、正しいとか信じろとかは言いません。眉唾で読んでください。

 

謎のスキャンをされてしまった

瞑想をして、頭がシーンとして…その後に、私の中の何かが変わってしまったような出来事が起こりました。

イメージの中で、身体が頭の先からスキャンされていって、スキャンされた所から「のっぺらぼう」のように認識されていったのです。自分が「のっぺらぼう」のような、つるっとした、「重要な何かが無い者」になってしまったような気がしたのです(勿論、あとで鏡を見たらちゃんと顔が付いてました)。

スキャンされている時は、別に痛いとか痒いということは無かったのですが、もっと深い瞑想状態に誘われるような感じがしました。しかし「このまま瞑想状態を深めたら、朝起きれなくなるかもしれない……ここは耐えよう」と、ひとまずそのスキャンを、意識を保ってやり過ごしました。

全身だか腰までだかのスキャンが終わると、何だか急に、理由なく困惑していました。理由を認識する前に「えー……まあいいんだけど、なんだかなあー、こんなはずでしたっけ?」という感想だけが出てきます。そこで、「私が人間として在るために必要だった何か」が抜け落ちてしまった……そのように感じたのでした。

のっぺらぼうは、本来なら顔のパーツがあるべき所にない、という状態です。元々何も書いていない、白い紙とは順番が違います。ここがヒントのような気がしました。

……なんだかアヤシイのは分かりますが、決してふざけていませんよ。

 

感情の起伏がわずかになった

その謎のスキャンが終わると、頭の中に雑念やら眠気やらが急にワラワラ出てきたので、眠ることにしました。

翌朝、目覚めた時の心境が、何やらいつもと違いました。どう違ったのか?

まず、いつもは、「あー朝か、学校かー」と、「嫌だなあ」までは行かないのですが、多少のかったるさを感じていました。その怠さが無い。爽やかでもないですが、怠くもない。特に感想がなく、淡々と目覚ましを止めます。

そしたら何時ものように朝食を摂りながら新聞を読むのですが、これまた心の反応がない。いつもは、ニュースなどを見ると「怖い事件だなあ」「幸せだなんて妬ましい」などと色々感情が起こっていたのですが、それらが起こらない。今までなら「こんなことになるのは、〇〇だからだ、ああだ、こうだ……」と腹を立てていたニュースでも、「いけませんねぇ、困りますねぇ」というような、何とも手応えのない感想が出てきてしまうのです。お得意の理屈が飛んでいってしまいました。

通学中にも異変を感じました。道を歩いていて、目の前の人が急に立ち止まっても「あらあら」みたいな感想で、全然怒りが湧いてこない。電車内で小学生や外国人が大きな声で喋っても「楽しそうで何よりです」、ホストとその彼女が手を繋いでいたら「一緒にいられて良かったですねぇ」、終いには道端の雑草に「元気に生きていて、よかったですね」と微笑みかける始末でした。

家に帰ってきたら、2度体をドアや盆にぶつけました。ついこの間までなら、「モノのくせに私を痛めつけたな!」というような感情が「カッ」と湧き上がってきたのですが、これがちっとも起こりませんでした。痛みは感じるのですが、感情までは動きません。むしろ、そのモノたちを撫でてやりたいような、謎の心境が現れたのです。これが慈悲なんでしょうか?

 

ここ数日間、心の湖がすごく静かで、穏やかなのです。喜怒哀楽の感情が微かにしか起きず、起きたとしても「あぁ、今私は悲しい気持ちなんだな」「あぁ、今は楽しいんだな」などと俯瞰できて、すぐ穏やかに戻ってきます。

その時々の気分を、必要以上に強く起こしたり、長く味わうことを止めたようです。感情は大切なもののように思えるけれど、本当はすぐに流れゆく無常なものだ、それにいちいち掴まることはない、ということが分かったのかも知れません。

 

悪いことは特になさそうですが……私は一体どうなってしまったのでしょうか。

仏教用語でいうと、不還向か不還果になったのかな?という感覚ですが、感覚のことなので正確にはよく分かりません。悟りの階梯を上る感覚は、人によって違うのかもしれませんし。

 

ものの本当の問題が少しは見えるようになった

まぁおこがましい、という感じですが、どうもここも以前とは変わったようです。これまでの私なら、自分の損得フィルターを通して物事を見ていました。単純にお金が絡む場合だけでなく、見栄とか立場のためにです。しかし今は、そのフィルターを通さないストレートなものの見方が、少しずつ出来るようになり始めたように思います。

例えばですが、化粧品会社がありますね。元々化粧というのは、おまじないの意味があったようですが、現代ではすっかり美のための行動です。

その会社は「みんなの "美しくありたい" "若々しくいたい" という思いを形にして、幸せにしますよ」みたいな事を言うのですが、これが変であると気付きます。

本当に人々を幸せにしたいのなら、私ならこう言いますよ。「そんなに頑張って見た目を整える必要はないし、人は必ず老いるんですよ。これは人間には変えられない、自然の摂理です。そこを無理して、みんなで競走のように飾り立てるから苦しいんですよ。化粧がうまいとか、若々しいとかは、人間の価値には関係ありませんよ」と。

鉄道会社や宅配会社は「より早く届けることで幸せを作る」みたいな事を言いますが、これも変です。人が幸せになるのに大事なのは、速度じゃなくて気持ちでしょうし、「速く行けるんだから、日帰りにしなさい」「失礼だから速達にしなさい」という新しい苦しみが生まれることを直視していないんですね。

ただ、その会社で働いている人たちは生活するために働いているのだし、化粧品とか電車が好きでその会社なんでしょう。その顧客も、ただお化粧や新幹線が好きなのです。そして、彼らがというよりは世の中全体で「もっと〇〇に〜」という流れにしているのですから、彼らに対しては特に何も言いません。ここに「本当はそうじゃないよね」と書き残すだけです。

 

バンドマンも救われてほしい

この過去記事で書いた考えが、またちょっと変わりました。

バンドマンに限らず、画家とか何でもそうなのですが、彼らは苦しい気持ちを芸術に昇華しています。ですので、彼らがもし悟りを開いて楽に生きることになれば、悟れば苦しみが無いそうですから、おそらく創作活動はペースダウンするでしょう。

ここがジレンマだったのですが、私個人の気持ちが変わり、「彼(ら)が穏やかに生きられるのであれば何よりだ」という考えになってきました。自分が作品を聴くよりも、バンドマン(に限らず、みんな)が穏やかに生きられる方が好ましいです。

それはバンドマンの作品を軽く見る態度なのではないか、という気もしなくはないです。ですが、やはり彼らも穏やかになって良いと思うのです。

チルボドの曲を聴いていたら、なんだかアレキシが必死に苦しみを書き上げている、歌い上げているように聴こえたのです。そこで、この人が苦しみから解放されるのなら、自分はもうこの人の新曲を聴けなくても、ライブに行けなくてもいい、それよりも穏やかな気持ちで、にっこり生きてほしい、という気持ちになったのです。

ただこれは個人のボヤキであって、彼自身はインタビューで「バンド活動は大変だけど生きがいだ」みたいな風に語っていますから、その仕事についてああだこうだと言う気は全くありません。ギターや作曲が好きで得意で、生活のためにしているのですから、止めるのが良い事かというと、そうでもない。

ただ、苦しみを材料として作り出した曲にお金を払うという行動は、彼をアーティストでなく人間として見た時、果たして正しいことなのか、などと考えてしまいました。

答えがない問題なのかもしれません。

 

この状態は、いつか戻るのか?

正直、体験している私自身もどうなるか分かりません。何日か経てば、また感情のある前と同じ感覚に戻るのか、それとももうこれからはずっと穏やかでいられるのか?

何か変化があったら、また記事を書くと思います。

このブログは、自分の記録としても役立つように思えてきました。もし、どなたかの参考にでもなれば、これ以上のことはないですね。