生きる意味

何個か前の記事で「生きる意味について考えます」と締めて、ちゃんと考えました。

私のブログは、ただただ思い付いたことを書いているだけですが、うっすらボンヤリと想定読者がいます。昔の自分に似ている人です。

そういう人は、世の中じゅうを渦巻く「夢、成功、やりがい…」などの言葉に、必要以上に囚われてしまう傾向があります。そして心がやられていく。ですから、このブログではその反対の事を言う。経済発展よりも自然や真理を大切にして、感情や根性より論理に重きを置く。それで読者の人々に、視点を増やしたりバランスを取ったりしてもらおうかと思ってます。

何事も中庸な視点が大事です。

 

そもそも何故そう考える?

「生きる意味とはなんだろうか?」「人生とは何なのか?」などと一生懸命考えますが、一歩手前から行ってみましょう。

「生きる意味とは何だ?」と考えるのは、何故なんでしょうか。答えは2パターンあります。

まず1パターンめは、「私が生きる意味は〇〇だったんだ!なるほど〜」と思いたいからです。文脈的に当然すぎることですが、改めて考えてみましょう。

何故「私の生きる意味は〇〇だ」と思いたいのでしょう?

 

嫌な予感がしてきますね。

ようは、「私の生きる意味は〇〇ね!」と確信して、「よし、〇〇のために一生懸命生きる!」と思って、「イキイキ輝いて生きること」がしたいんです。

「今は違うけれど、きっといつかなれる、"素敵な私"」を夢想してるんですね、これは。

「私の人生を、私が選んで、私が生きる!」と、「オレがオレが」と、そういう状態です。そうすれば、気分がジェットコースターみたいで生きた心地がするし、成功したらゾクゾクすごく気持ちがいい。しかし、こりゃ自我の仕業です。振り回されてはいけません。

ホントは「世界はない・自分はいない・人間に真理は分からない」の三大「ない」です。元気が有り余ってるなら、あれしたい・こうしたい、と考えてもいいですが、無理してまで幻想に振り回されると大変です。「置かれた場所で咲く」くらいで十分なんじゃないでしょうか。

 

この世界は何なんだろう?と、どんどん概念を上げて抽象的に考えていって、最後には自分自身も自らの論理に巻き込まざるを得なくなる、そうしたら「なんにもないんだなぁ」「自分は何も知らないんだなぁ」と実感してしまいました。

べつに「自分の人生をイキイキ輝いて生き」なくても幸福感は感じられますし、他人から見てもそこそこ充実するでしょう。「これが私の使命で、生きる意味だ!!」と変に思わなければ、渇望感も出てきませんので、楽です。自我に任せてジェットコースターに乗るのが好きな人は、自由にそうしたら良いと思います。ただ私の場合は、自我に任せると喜びや達成感より自己欺瞞を感じるタイプだと分かったので、自我に主導権はあげません。

 

自我に力を預けてみて「俺の生きる意味は、〇〇だったんだーーー!!!」と強烈に感じると、すごくワクワクして力が漲ってきます。すぐ行動するようになりますし、未来の成功を考えると楽しくなります。私にもそういう時期が、短いですがありました。しかし自分で自分を催眠にかけているように感じてならなく、その時期は案外早く終わったのです。

 

ということで、1つめのパターンは「自分の特別な人生を生きたい!と、夢見ているから」でした。

 

「こんなに苦しいのに」?

次は、2つめのパターンです。

「なぜ生きるのか」という問に、よくくっ付いている気持ちがありますね。
「こんなに苦しいことが起こるのに」とか「こんなに私は無能なのに」とか。そう、2つめは「マイナス要因があるのに、何故生き続けるのか」というものです。

何でも何も、生きている直接の理由は、身体が勝手に生きているからです。「苦しいゲージ」が上限に達したら死ぬシステムにはなっていないからです。苦しいことや無能なことと、生きたり死んだりすることは、直接的には関係がありません。

環境と自分の性質が合うかどうかは、誰のせいでもありませんし、世論はコロコロ変わりますし、無能というのは相対的な評価です。

私はもう「何もないな」ということを理解して楽になってしまい、生きるのが苦しい気持ちを忘れてしまったので、無意識に嫌な事を言っているかも知れません。その場合は、ごめんなさいね。

もう苦しくて生きていたくもないのなら、死ぬ前の一つの選択肢として「この世の無常を受け入れて、何も期待しない精神になる」という方法も提示しておきます。

「自分のせいじゃないから傲慢になってOK」じゃないですよ。「〇〇のせい」という印象も含めて、世の中のものは全て変わり続けている、ということです。

「どんなに苦しいことが起こっても、生きる意味はない」「どれだけ刺激的で楽しい日々でも、生きる意味はない」であって、「どんなに君が無能でも生きる意味はない」「どれだけ天才でも生きる意味はない」ということです。
みんな平等に無意味です。

「苦しいのだから、何か意味があるはず」とか「才能があるということは、何か使命があるはず」とかは、全部妄想です。妄想して、その上でやっぱり「自分の使命を果たす!」というのなら、止めませんが。私がここであーだこーだ言っても、最終的にはみんな自由です。そして私も、才能ある芸術家達の作品を楽しんでいるのです。

 

人生、楽しんだもん勝ち?

非常によく聞く言葉ですね。私は好きじゃないです。まず人生を勝ち負けや損得で考えるのは愚かです。生まれてきてすぐに亡くなってしまった赤ちゃんは負けで、損してるのでしょうか?

「人生一度きり、自分の人生なんだから、自分で自由に好きなことして生きなきゃ損!」などという文言が、主にネットビジネス界隈で流布していますね。まあ、これは個人の考え方なので、私が止めさせる権利はありません。

ただ良くないのは、彼らが「会社勤めしてるのは負け組で、ブロガーや起業家は賢い」などのように宣っていることです。

「自分の人生を自由に生きよう」と言いながら「会社勤めは自由じゃない、損してる」などというのは矛盾しています。個人で自由に好きなことを選んだ結果がたまたま会社勤めだった、または会社勤めが好きだ、俺の会社は自営並に自由だぜ、などのパターンを無視してはいけません。

サラリーマンより起業家が偉いというのは幻想です。社会的なチヤホヤ度(お猿さんの進化系だけが気にする、ふしぎな定規)はともかく、生物としては同じ地位です。他の生物と同じです。

だから、ホントに好きに生きればいいと思いますね。「好きに」というのは「自由に」で、それはサラリーマンかもしれない。「自由」とは、必ずしも「常識を外れ、趣味を仕事にする」ことではない。好きな趣味して生きていっても、言われたことして生きていっても、べつにどっちが偉いとか無いですよ。何度も言いますが、それは「お猿さんの進化系だけが気にする、ふしぎな定規」です。

会社勤めでも起業でも後継ぎでも旅人でも何でもいい。自分の感覚にあった流れで、自然体で行けばいいんじゃないですか。本人にとっては深刻ですが、他人はどうでもいいと思ってますし。

彼らは、ただただ親切なのかもしれません。自分がブロガーとか起業家で充実してるから、こんな生き方もあるよ!いいよ!とサラリーマンに教えている側面もあるでしょう。書いているうちにテンションが上がって、語気が強くなっているのかもしれません。

でも他人の「それぞれ自由な生き方」を貶めたりするのはダメですね。人間的にも論理的にも。「オレはサラリーマンだから劣ってるのか…」とか思わせて、渇望感を刺激するのは悪い事です。

このへんは、大人になると認識がおかしくなる人が増えますね。幼稚園児や小学生の方が、こういう価値観にかけては大人より正しい。まだ脳が無駄に大きくないから、真っ直ぐに見られるのでしょう。お医者さんも大工さんもレジのお姉さんも、みんなカッコいいと。

 

自然を見習う

人間は脳みそが無駄に大きくなりすぎて、ただ生きてるだけでは満足出来なくなってしまったんでしょう。

試しに、うちの小鳥に「なんで生きているかな?」と聞いてみても、特に返事はありませんでした。「君の生きることは楽しいだけかい?」と聞いても、何も言いません。窓から見える木々も、何も言わずにただ揺れています。雲の形は常に変わり続けており、脚の折れた蟻も、喰われて翼だけになった雀も、みな無言です。何も言葉では教えてくれません。

彼らは、特に理由はなく、ただ生きて、ただ死んでいます。理由を欲しがるのは人間だけです。理由が欲しいのは、自分のことを「他とは違う、特別で唯一な、個性あるこの"私"」と感じるからです。オレがオレがと思っているのです。これは「ユニークな人」とか「奇抜なファッション」というのとは違います。おそらく皆が感じている、「周りの世界と、単独の私」という当たり前の感覚です。

同じ種類の動物なのに、個体ごとに生きる理由が違う、というのは、個性とか自我が飛び出てるからなんですね。飛び出るとは、不自然にはみ出すということで、出る杭じゃないですよ。べつに褒められたことでも何でもありません。

動物や植物を眺めていると、無常の真理をそれとなく、しかしひしひしと感じさせてもらえます。一番馬鹿なのは人間です。「人間が科学の力を発展させていけば、何でもできて全てが分かるようになる」などというのは傲慢な妄想です。私たちは、広大な宇宙の片隅にある銀河の、そのまた外れにある塵のような星に吸引されている、お猿さんの進化系に過ぎません。

 

ですから、「生きる意味は何でしょう」という問に対しては、今のところは「特にない、身体が勝手に生かされているだけ」と答えることになります。

まあ、あまり構えずに、そのうちやりがいを感じる事があるかもしれないし、ないかもしれない、それでいいじゃない。

個人的な気持ちを強いて付け足すなら、「なんとなく勿体ない気がするから、まだ生きている」ですね。ようは死ぬ理由がないし、死んでも特に意味がない。生きてるのと同じなんで、わざわざ死ななくてもいいかと。放っておいても100年せずに死にますし、だったら他人の手伝いでもすれば、もっと言えば過去の自分の救済をしていくのは、幻想とはいえ悪くはないなと。

「自分の人生を使って、自分のためにすべきこと、したいこと」は、もう殆どなくなったのです。自我を呼び起こせば作れるけれど、疲れるだけなのでしません、という感じです。

 

肉食獣は、爪や牙があるからといって、無駄に殺しまくったりはしません。

大きな脳があるからといって、何でもかんでもやろうとする人間たちは、欲の塊です。世の中ではまるで経済発展が良い事であるかのように言われていますが、よくよく考えれば別に何でもありません。

自然の摂理と中庸を守って、やさしく謙虚に生きていきたいです。

雲の上で心地好く寝転ぶように。

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