理想と現実を履き違えて

思索が…いや、理解が進んだようです。

最近はよく、スマナサーラ長老という、スリランカの有名なお坊さんのお話(説法)を読んでいます。仏教周りの哲学に興味がある方々は、読んでみるといいと思います。

さて、「無常」は現実。それは分かっていたのですが、私は同時にそれを “理想” だとも思い込んでいました、という話です。

真・善・美は、真理の前では同じことなんじゃないかと感じていましたが、ちゃんと別のことでした。

たぶん今までの記事で一番分かりにくい、というか体感しないと理解できない?そんなことを書きます。

なるべく筆舌を尽くして、全力で伝えたいと思います。

 

頑張る意味

「この世には何も無い。あらゆるものには、何の価値もない」という所まで来ると、「意味がないなら、頑張っても無駄だ」という考えが起こります。

一見もっともな連想ですが、ここには「頑張るのは意味があるからだ」という強力な前提があるのです。

例えば、子供は意味がなくても頑張りますね。早起きして虫を取ったり、頑張って楽器の練習をしたり、本気で鬼ごっこをします。

これらの行動には、大人に見える「意味」はない。強いていえば、辛抱強く努力する体験や協調性などが身につくのですが、大人のような「これをすれば、次に〇〇が起こる、そうすると△△できる」のような具体的な意味はありません。

では、子供たちは何故意味のないことを一生懸命するのでしょう?
 
これは、楽しいからですね。
 
私を含めた大人も昔は子供だったのですが、いつの間にか忘れてしまいました。

べつに画家や漫画家になるなんて全く思わずとも、楽しいから絵を描いていたわけです。そこに目標とか努力とかはない。ただただ楽しいから、ゲームをやったりお菓子を食べるのと全く同じように、描いていたわけです。(懐かしいなあ)

本当は、大人のような具体的な意味がなくても、楽しみのためだけに頑張ってもいいのです。ゲームはゲームらしく遊んでいいが、絵は仕事にしようと思わなければいけない、ということは全くないのです。

「一生懸命やると、なんでも楽しい」と小学校だかどこかで教わった気がします。だから一生懸命やる。損得とか成功とかじゃなく、ただ、ただ、楽しいから、ひたすら向き合う。

それを周りが「努力家だ」とか「頑張ってる」と形容しているだけなのです。いつもいつもこういう風に形容されるもんだから、一生懸命とは目標ある努力家のやることだ、というように錯覚してしまう。

「努力を努力と思わない」とは、こういうこと、つまり「思わないようにしよう」ではなく「本当にこれは努力ではない、趣味同然」なんでしょう。

努力というのは目標を達成するためにすることですから、ただ楽しいだけで打ち込んでいることは、確かに本人からしたら努力とは言いませんね。

本当に目標のために努力をしている人もいると思いますが、例外もいっぱいあります、特に子供たちの中に。

 

ただ横たわっている真理

「でも、楽しいという感情にも意味が無いぞ」という発想が出てきます。「意味が無いのだから、感情は止めるべきなのでは」と考え始めます。私はそう考えていました。

確かに、感情にも意味はないです。しかし、ここで気を付けたいのが、理想と現実の混同です。

理想と現実というのは、しばしば対比的に語られますので、まさか混同するわけないだろうと思われるかもしれませんが、私は混同しました。というか、真理というものを分解したら、それは理想と現実のセットであるような気がしていたのです。

「意味が無い」ということは、ただ「意味が無い」というだけなのです。ただ現実を表す言葉です。

そこには「無意味“であるのが正しい”」とか「真理である無に “近づかなければならない”」とかいった、「だから〇〇すべきだ」という話はくっ付いていないのです。それは現実ではなく、そこから妄想した勝手な理想です。

「真理があるのだから、理想もきっとありそうだ」などのように感じていたのかもしれません。お釈迦様の教えというものがあるので、教えて導くということは、その先が理想なのだろうと。

でも、たぶん違ったのでしょう。そうではなく、もっともっとシンプルな話です。
 
「無常」という現実が、ただ、ある。
 
それだけで、何も強制はされていません。良くも悪くもない、ただのニュートラルな現象です。
だから、別にそれに追随しなくても、「(意味なく)楽しむ」ことをしても、いいのです。「無常という真理に反する」とかいう話には、そもそもならないのです。

真理というのは、ある種絶対的すぎて、従ったり反抗したりできるものではない。ただ、ただ、そこに依然として横たわっている、私達の動きと関係なく無限に存在する、無言の現象です。

その真理と、私達がどう生きるかというのは、無関係ではありませんが、直接繋がれているわけでもありません。

冒頭で「真・善・美は、真理の前では同じだと思っていた」と書きました。「真・善・美」は物事の価値基準なのですが、なんとなく善と美は、圧倒的な真(真理)の中に包まれてしまうような気がしていたのです。 ですが、真理が「ただあること」だと分かると、善も美も独立して存在可能な概念だと感じられました。

 

動物だったということ

この世は無常で、生きるのは苦しい。永久に不変のものはなく、病になったり老いたり死ぬのは苦しい、これは事実です。しかし(もちろん?)理想ではありません。

悲しい現実、これをしっかり確認したうえで、何も意味が無いのなら朗らかに過ごしたい、という帰結になります。

この「朗らかでいたい」というのは、論理的結論や理想の目標ではなく、人間の根っこから出てくる「毎日ごはんが食べられたらいいなあ、暖かいねぐらがあると嬉しいなあ、仲の良い友達がいたら楽しいなあ……」などなどといった「動物としての希望の方向」のことです。

論理や理屈を突き詰めると、最終的に論理は論理自身を飲み込んで無に帰します。そうして、あらゆるものの価値を消し、世界を消し、生きる意味も消し、遂には自分自身も消して……最後にほんとうに何も無くなったとき、それでも心を幽閉していたタンパク質の底で、「人間としての希望」みたいなものだけが僅かに光を放っていたのでした。

自分オリジナルの価値を作って頑張るとか、超人になるとか、オンリーワンとか、そういうことは余計なのです。ダメとは言いませんが、わざわざ「オリジナルの価値を創造してやるぞ」などとリキまずとも、ただ目の前のことを頑張って、朗らかでいれば大丈夫なのです。

 

 

自分でも非常に不思議なのですが、なんにもないことが分かると「人間として幸福なベクトル」を向いていたいなぁ、というような気持ちになるのです。本能的になってしまうみたいです。闇や悪という概念が好きなメタラーでも、なぜかこういう平和的な事を思ってしまうのです。そして、こんなフワフワ頭な人間になっても、未だにちゃんとメタルや闇属性は好きなままなのです。

 

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