天性の違和感

今回は、めちゃくちゃ常体で書いてみました。

いつもの敬体より書きやすかったので、もしかすると今後の記事の一部または殆どが常体になる可能性があります。

 

不完全な自己を疑いにかけ続けている

私の思考回路について考えをめぐらし、どうしてそのように思考する性質を得たのか考えていた。そこで、今まではそれは後天的に育ったのだという見方をしてきたが、先天的に得ていたとする見方を発見したので、今回の記事とする。

後天的に備わったように見える特性も、よく点検すると、バックには先天的な性格に基づく意思決定・選択がある場合があった。

 

まず、私の性質について紹介する。飛ばし読みで大丈夫。

私は、物事をかなり緻密に・論理的に説明づけないと納得しないほうだ。(ただし、納得しなくても行動に踏み切ることはあるし、そうしなければうまく生きていけないだろう)

どこまでも自分自身の思考を点検し難癖をつけていくので、ある程度のところで妥協しないと何も言えないと感じている。完璧な理論というものができるなら、そうしたいのだが、それができてから意見を述べようとするならば、私は一生何も意見できないだろう。私の知らないことが、どこかには必ず、どうしてもあるものだ。しかも私は、不完全な人間なのだ(私も、人間という生物種も、どちらも数式ではない)。不完全な存在がいう「完璧な理論」は、はたして完璧といえるのか。また、不完全な存在が作った言語でまとめられた「完璧な理論」を、不完全な存在が聞いた時、果たして完全な形で理解されるのだろうか。

こうして(ばかげた)思いを馳せていくと、私はどこまでも己の思考を疑わざるをえない。世界のあらゆる事象や理論、他者の言っていることについても同様だ。この世の、いやあの世も含めて、あらゆる全てが疑わしい(全てが不安定だから、我々の存在は許されているのだと思うが)。私が人間であり、人間の脳を使ってしか思考できない時点で、私は絶対に完璧ではないのだ。ただ、毎回そのようなことを口に出しては言わないだけである。かなり妥協しないと生きていけないのだ。

 

さて、私のこの性質は、育った環境にいくらか関係があると今まで睨んできた。私の周囲には、完璧に近い論理と知識でもって証明しなければ、自分の意見など大人には一蹴される、そういう風に悟らせる環境があったのだ。

人によって価値観は違い時代は流れる、ゆえに私の意見は100%完璧にはならないので、決して受け入れられることが無い。しかし他人の意見は多少不備があっても何故か受け入れられるのだ、それはそういうものなのだと実感し諦めていた。きっと私は無愛想だったのだろう。

 

父という絶対的存在

私の家庭では父親が絶対的な決定権を持っている。両親が喧嘩をするところを見たことがないのだが、それは母が父に従っているからだと感じられる。そして私と弟は母に従っていたのだ。

何か意見の食い違いが起こったら、はじめは何とか私の考えを両親に伝えようとするのだが、話しているうちに頭がフラフラしてきて、そのうち自分の言いたかった論点が分からなくなる。「自分で調査していないこと」を話に混ぜるとそこを突かれる。全ての単語や世論、知識を精査した上で発言することは不可能なので、最終的には自分の意見を諦める。親子という関係である以上、最後には従わなければ生きていけないのだ...。

毎回この構図なので、いつからか私は議論を「問題や意見をまとめ、解決するもの」ではなく「自分の意見の不備を確認する鏡」として利用することにした。すなわち、論破や解決はハナから望めないのでそこは期待せず、「私の現在の知的能力はどこまで引き算を避けられるか」をテストする場として、両親に議論を仕掛けるようになった。

ここで、よくよく考えると不思議な現象が起こっていることが分かる。

私の意見は決して受け入れられず、議論によっての論破や解決は望めない。それなのになぜ、私は両親に「勝てるよう」(決して勝てないのだが、そう思って頑張ることで頭脳は成長する)脳内シミュレーションをしていたのだろうか?

「いつかは勝てるようになる」と思っていたのだろうか。確かに私は負けず嫌いなのかもしれないが、勝つ必要は無かったはずだ。それに、スポーツでは1点上回れば勝ち・選挙では1票でも多く貰えれば勝ちなのだが、我が家の議場は「親に1点入れられたら子供は負け」「親は財産を持っているので負けない」という奇抜なルールなのである。

それとも、「完璧に勝たなければ、両親に悪い(あなたがたを完全論破できない無能な子供ですまない)」という思いがあったのだろうか。

どちらもありえるし、そうであったような気もしないことはないが、今回は、それよりももっと重要で根本的な理由を見つけることができた。

 

考えずには「生きられない」

そこには、私の持って生まれた性格があったのだと思う。すなわち、私はいつも議題を持っていて、それを他者に向かって知らせたい。何かにつけていつも「何かがおかしいぞ」と感じていて、それにサッと蓋をすることができない。

現在は年齢もあってか多少丸くなり、考えずに生きることにも理解を示せるようになったが、やっぱりどこか底の方で「何にも考えないで生きていて、、、それで、なんにもならないじゃないか」と、何となく、しかし絶対的に感じている。これは理屈うんぬんではなく、元々そのように感じてしまう特性が私にはあるのだろう。そういう脳の造りなのだろう。これについては、長所は短所でもあるということで、良いことだとも悪いことだとも思わない。ただ、私の価値観上では、かなり重要な能力を持って生まれてこれたと思う(自分の脳によって価値観を造り、それによって自分の脳を肯定するという笑い話)。

「何かがおかしいぞ」といつも感じて己を点検にかけていく癖は、前述の論理至上主義的な環境で育ったゆえの反応の癖、後天的に植え付けられたものなのだろうか。仮にその癖があらわれる以前にはあまり「おかしいぞ」と感じていなかったとして、なぜ望み薄な試合を仕掛けていったのか。なぜ「自分の意見の不備を確認する鏡」を使ったのだろうか。

使いたかったから、使ったのだろう、としか言いようがない。そこに面白そうな、使えそうな鏡があった、私の生来の性格からそう感じたのだろう。

 

気づくことができる!

話を少しずらす。最後には一点に収める。

「気づく」ということは非常に難しい。というか、ほとんど運や生来の性格に左右されているのではないかと思える、奇妙な現象だ。何かに気づくときは、いつでも「ふと」気づくのだ。五感と思考と何かの作用で、何故かどこかから「発生してくる」のであって、「よし、今から何かに気づくぞ」と思ってこなす仕事ではない。ちょうど、道を歩いていて、そよ風が吹いたり頭上を鳥が通過するのと同じように、どこからともなく、自分の行動とは無関係に、不意に起こる現象なのだ。

そんな不思議な現象を、努力によってコントロールすることができるのだろうか。われわれの自然な感覚でいえば、答えはNoといえる。それは「聞こえてくるものを、聞こえないと感じろ」または「目をつぶりながら見ろ」というのと同じである。気づいたものは気づいてしまったのだし、気づかないことには気づかなかったのだ。

事務仕事のミスを減らすためのチェックリストを作るような「気づくための努力」は可能だが、仕事やミスの関わらない、ボンヤリとした領域に関して「気づくように努力する」ということが、実際に効果のある行動として可能なのかどうか、相当怪しい。そのチェックリストは、曖昧で意味を成さない文章(たとえば...「何かがあるか?」「どんな感じか?」などのような)が、無限に並んでいるようである。(無意識にある日常生活を「空の様子はどうか?」「腹の調子はどうか?」などのチェックリストで照らしてみたら、それはそれで面白そうだ。)

そう考えると、私の元来の性格と考えられる「おかしいぞ病」は、使いようがある。スイスイと生きていくには邪魔な癖だが、自分としてはけっこういいものを持ってこれたと思う。

 

「おかしいぞ」と感じること、すなわち何かに違和感を持つこと、その感覚が湧き出る瞬間、そして違和感そのものを、しっかり守っていきたいと思った気付きだった。

広告を非表示にする