どこからでも無い眺め

ここ2~3週間は、あんまりちゃんと瞑想しないで「欲の世界」で過ごしていました。

欲といっても、普通の経済生活のことです。すごいお金使ったりとか、美味しいもの食べまくったりとか、大人の遊びに興じたりとかではありません。

「何にもいらないや」という気持ちでいるか、「多少は欲しい」という気持ちなのかの違いです。

特に「よし、一回欲の世界に戻ってみるぞ」と思って来たわけではなく、怠けて来てしまいました。

ただ結果的には、脳や自我が休まらない状態を再確認できたので、悪くなかったです。

欲世界で「一生懸命頑張って」も、無でいても、どっちでもまあまあいいかなと思いました。楽なのは無ですが。

 

脳のオーバーヒート

夜更かしして色々考えていたら、頭の中がかなり煩いことに気付きました。

「ごーごー」というか「わんわん」というか、篭った音のような感覚が、内側から脳を圧迫している感じです。

これはオーバーヒートかなと思って、寝ることにしました。寝る前に瞑想をするので、胡座を組んで背筋を伸ばして「ふー」とやります。

……

そうすると、無事オーバーヒートは冷却されたようでした。瞑想は思考を止めますからね。

まっくろくろすけが退散するように、「ごうごう」煩いものが、視界から晴れたような感じです。

昔はこの「煩い頭」状態にしょっちゅうなっていたのですが、対処法を知らなかったので放置でした。それで特に困ったことは起こらなかったのですが……思考で脳がパンパンになっているよりは、なんもなくてスッキリしてる方が心地よいのです。

 

やばそうな瞑想

そんなこともありつつ、欲世界から戻って来ました。ただ、私には(まだ?)「即戻り」はできないようで、何日かかけて「なんもないところ」に帰ってきました。

欲の世界に飽きてきてから、再び過去記事↓で体験した「なんもない世界」を体験するには、5日くらいかかったのです。

で、今回体験した瞑想状態というのは、これら2回よりも更に「無」に近いものだと感じました。

その瞑想状態が眼前に現れて(目は瞑っていますが、フッと目の前を覆った感じでした)、だんだんその「無の状態」が身体に迫ってくる……取り込まれそうになる。

その時、「あ、これはまずい。このままこの感覚にダイブしたら、自分の意思では戻って来れなくなりそうだ」と感じました。

深い瞑想に入っていくと、だんだん代謝が落ちてきます。呼吸がゆっくりと少なくなり、身体がズッ…と落ち着いてきます。思考が無くなり、頭の中がシーンと…いや、「シーン」も無くなります。「やばそう」なのは、その流れを自分で解除できなくなるかも?と、つまり完全に思考が止まり、身体の活動も超ローに入り…それでは何時に起きれるか分からない、ということです。死にはしないと思いますが、予測不能で恐ろしかった。

そういうわけで、自分の身体を自分で動かせるうちに身体を揺らして、目を開き、現実世界に戻ってきました。

で、布団の上でしばらくいると、「自分という人間を斜め上から眺めているような感じ」、離人感に似た感覚でいました。

離人感自体は以前にも経験したことがあるのですが、それとは微妙に違うみたいです。今回の方が穏やかというか、自分を「操作している」というよりは「見守っている」感じです。「この子の苦しみがなくなりますように」みたいな感覚を、自分(という、他人のような存在)に対して持ちます。

冷静に見て頭おかしそうな文章ですが、本当なんだから仕方ない。体験した人だけが分かるのかなと思います。

ここから更に先に進む、つまり「やばそうな瞑想」にダイブするならば、瞑想会とかお寺を利用して、先輩や先生の管理下でやらないとまずいかなと思いました。

そして、今はそこまでやろうとは思っていません。

 

「自分はいない」のもう一つの意味

このブログで何回か「自分はいないぞ」ということを言ってきました。それは、「私」という存在は「私以外」の周りによって初めて規定されるのだ、「私」という存在が最初からドーンといるのではない、という意味でした。

その意味の「自分はいない」も合ってると思うのですが、今回、もう一つの「自分はいない」を体験しました。

これは多分、説明というものができないと思うのですが、とりあえず伝えようとはしてみますね。

「斜め上から眺めている」といっても、視点の位置が斜め上になったわけではありません。魂的なものが肉体から離脱しているわけでもありません。ただ、そういう「感じ」がするのです。

私…のような空気のような、何でもない何かが、私…という名の他人を眺めている。
私という人を含む世界を、どこからともなく、しかし私の視点…から眺めている。

斜め上から眺めている主は、「何でもない存在」というか「無」というか……いや、「無」という名前すら付いていない、「存在」という概念すら存在しない、そういう「眺め」だけをただ感じている、そういう状態です。

「斜め上から自分を眺めている感じ」なのですが、そこには「眺めている私」も「眺められている私」もいないのです。「私」がいないのです。ありそうなのは、何かによって見えているこの風景だけです。それも、「見えているから、絶対ある」ではなく「見えていると感じられる」というだけです。

 

自分を客観的に眺められる

自分という人を眺めている感じなので、かなり客観的に自分を見ることができます。

といってもまだ私は未熟ですので、常にはできません。ときどき、「今の自分どうかな?」と思う時、斜め上の方にうまく意識を移せれば、自分のことを「私」としてではなく「◯◯ちゃん」として評価できるのです。

そして、自分という人に対して、かなり慈悲心(?)を持っていて、「君がいいと思う方でいいよ」という感じで放っておけます。

他人はいつも「他人として」堂々とした、自信ある、どこか欠けていてもそこを含めて完璧な存在に見えますが、それと同じ形で自分という人も認識できるのです。

通常とはだいぶ違う形で「自己肯定感っぽいもの」を獲得してきているな、という感じです。

「完璧なマグロ」は空気で呼吸ができないし、足も生えてないし、髪も生えていないのです。どこかが欠けて「いてもいい」ではなく、「いるから君になる」です。

 

 

とりあえず瞑想を続けて、この「慈悲的な離人感」でいる時間は伸びたりするのか?自分の感覚がどう変化するか?試したりしようと思います。

好奇心で自分を実験台にしていきます。