ヒトの不幸な構造

※過去記事「どこからでも無い眺め」の前に書いていた記事です。時間の流れが投稿順序と合いませんが、記録として投稿します。

 

学校で、かなりの攻撃性に遭遇してしまいました。怒鳴り声です。
そこで己に起こる反応を観察し、人間という生物の造りをチラッと見たように思えたので、書き残します。

けっこう仏教用語が出てきますが、よく分からなければ、そこは飛ばして読んでもかまいません。

論旨は「感情というものは、その構造で私たちを不幸にする」です。

 

動物的な働き

自分は毎日「この世は無常だなあ」と感じているのですが、それでも攻撃性に晒された時はアドレナリンというものが出てきました。

怒鳴り声に身体が本能的に反応して、脳内物質が放出され、それによって血流が速くなったり、しばらくすると腹部が痛んだりしました。

ずっと食べないと腹が減ったり、息をしないと苦しくなるのと同じように、危険があると判断されるとアドレナリンが自動で出てきて、身体が臨戦態勢になるみたいです。

……とはいえ、私はまだ「完全に悟った」わけではないので、もしかしたら阿羅漢の人は怒鳴り声にも反応しないのかもしれません。

ただし、仏教の研究者である藤本晃氏著「悟りの階梯」によると、「阿羅漢の状態になった人は、日常生活に耐えられないので、出家してしまう」のだそうです。これが本当だとすると、阿羅漢の人は経済生活が「耐えられなくて」出家する、つまり、「快・不快」という感覚はあるみたいです。

「感情に囚われるのが鬱陶しい」「欲望を満たすことに興味がない」ということで、感情や欲を催す空気からは離れようとしているのではないかと思います。予想ですが……。

 

人間の本能

さて、怒号に揺れる己の反応を観察していると、人間の持つ欲望というのは同時多発的に起きているのだと分かりました。「攻撃したい」「平和でいたい」「認められたい」など……。

しかしそれらの欲望は、ディテールは違えど根本的には同じ場所から湧いてくるのだとも感じられました。

全ての欲望は、「生きていたい」という、生物の根源から湧き出るところから派生しています。

生きていたい、つまり死にたくない。そのためには、安全な場所にいたい。であれば、危険は排除したいし、仲間がいるといい……こんなふうに、「生きていたい」を起点として、欲は無限に分岐発生していきます。木のようです。

そして、起きた出来事に反応する「欲の枝葉」は特定の1つではありません。その出来事が枝葉に引っかかった何ヶ所もで、それぞれの欲を刺激します。出来事が大きいと、触れる枝葉の量も増えます。同時に満たせない欲が同時刺激されると、理性が出てきて調停します。

このへんの話は、過去記事「情熱を分析するカエル」も見てみてください。

この欲の木を、いろいろな出来事の起こる経済社会に持ち込んでいくと、色々な枝葉がバンバン刺激されます。
現代は資本主義、競争社会かつ平和主義です。競うのは良いことだが争いはダメで、体を動かしてないのに戦ったことにして、競争しながら仲良くしなければいけません。器用にやっていると思います。

そんな時に、事故的に誰かが怒鳴ったりしたのを聞いてアドレナリンが出ると、もう大変です。アドレナリンが出るだけでなく「自分も我慢してるのに」という思考まで沸き起こります。

肉体が臨戦態勢になったら、もちろん戦いたいのですが、人間社会ではなかなか戦えない。肉体が物理的に欲求を起こしてきても、「安定して生きたい」という欲求があるので、止まるのです。それほどまでに、我々の「安定して生きたい」という本能はすさまじいのです。

そうして起こるような怒りとか攻撃性は、仕事とか芸術で「昇華」している(らしい)のです。

 

感情と経済社会の反比例な関係

人間は感情を持つ生物です。共感もします。だから、仲間が死ぬと悲しい。悲しいから、「なるべく死なないでほしいな」と思います。そこで「死なないためには、どうしたらいい?」と考えます。

最初は生贄とかお祓いなど迷信的なこともしていますが、しばらくすると、医者や薬が出てきます。病院や予防接種や出生前診断まで出てきました。現代社会です。

さてさて、この現代社会では、感情は抑圧されています。他人が感情を炸裂させると自分が傷つくから、自分も感情をコントロールする。ギブアンドテイクというか、自分が平和であるために、自分も我慢しているという状態です。「感情をちゃんと出したい」という欲望とのバトルに平和主義が勝った人が多いから、全体としてはそうなっているのです。

そこで感情を我慢しない人が出てくると、「感情で刺されて怖い」だけでなく「自分たちは我慢しているのに」という思いまで出てきて、その我慢しない人は「困った人」扱いになります。

もし感情を我慢しない社会になったら、ちょっとしたことですぐ殴り合いが始まります。毎日犯罪だらけの、危険な世界になります。味わうまでもなく「平和が一番」と思います。

結局何が言いたいかというと、人間の持つ感情というシロモノは、その構造によって私たちを「完全な幸福」には導かない。あっちを立てればこっちが立たずで、必ず、何かしらの不幸を味わうようにできている。

何かいいことがあったら「ルンルン気分」になりますが、折れ線グラフでいって、ずーっと右肩上がりっぱなし、ということはありえない。「あの時はよかったな」「でも今はそうでもないぞ」という状況になります。そこで「もっと強いルンルン気分になろう!」というのは、明らかに破綻の道を辿っていますよね?「もっと」の次は「もっともっと」で、それも達成したら「もっともっともっと!」になってしまいます。そして、感情とか欲望とかいうのは、そういう風に「もっと」欲しがるようにできています。

であれば、感情や欲望に固執しないよう練習するのが賢明です。「もっともっと」を止めて「ほどほどで満足」するのが、大きな脳みそを持って生まれた人間の仕事だと思います。

感情が起こるのは仕方ないとして、それを保存したり醸成しても芸術以外の役には立たない。幸せとは、単なる幸福感のことであって、社会的ステータス=幸せ度ではありません。

...とはいえ、私はまだ感情いっぱいの欲界でも色々学んでみたいな、という気持ちです。

 

悟りの階梯を逆戻り?

過去記事「心の水面」を書く直前に体験した、圧倒的な穏やかさ、あれは今思えば不還果だったのかなと思います。短期間でしたが、欲も怒りもさっぱりない、未練もない、微笑みの状態でした。

ですが、この記事を書いていた時はどうだったかというと、けっこう頭の中を思考が駆け回っていました。一来果か預流果に戻って来たのかなという感じでした。

この記事を書いた後、しばらくちゃんと瞑想をやって、「どこからでも無い眺め」の新感覚を体験しました。

思うに、俗世にいる限りは、感情の爆発や自己啓発に触れてしまった時、脳が「前の感じ」に戻ろうとする。脳が戻ろうとしているのには気づけるので、それを観察した後、再び無に帰ろうと思って帰って来れましたが、出家でもしない限りは「悟りの階梯」を多少前後というか昇降することはあるんじゃないかと思います。

一度預流果以上になった人が凡夫になるのは想像し難いですが、一来果や不還果の人が一段下がるのは、個人的な体験としてもありえそうです。

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