コズミック・シャワー

こんばんは。

必殺技みたいで綺麗なタイトルですね。内容とは、関係がないようで微妙にあります。(こんなんばっかだな)

何があったかというと、先日のゲリラ豪雨です。世界のお終いを感じるほどの様子でした。強すぎる風で木々の葉が真横に流れ、滝の中にいるような雨が叩きつけ、家の中から覗いただけでも結構ショッキングな光景でした。

その豪雨が去った後、私は夕食を食べに自転車で出掛けました。

自転車で走っている時、新しい境地を感じたので、つらつらと書き残します。

いつもと同じく、信じないでくださいね。

 

凄いことが起こっているぞ

自転車でしばらく走り、交差点でふと周りを見渡すと、その光景が非常にクリアに見えました。

ものの色が鮮やかで、立体感が強く感じられ、空気が真空であるかのように澄んでいる。とても綺麗でした。

雨の後の夜で、辺りはもう暗いし、雨の後の匂いが充満していたのですが、そういう「見え方」を無視して「ものの本当の輝き」のような、本質のようなものがダイレクトに感覚として届いている、そんな感じでした。

自転車を漕ぎながら、どこからともなく、ふと思いました。

「そうか、私は人間として生まれてこれたんだ。理由は分からないけど、今ここに私として感覚が起こっているんだ。どういうわけだか分からないけど、何か凄いものによって私が成り立っているんだ」

「今ここに存在している!」「さっきの今ここにも存在できたが、また、今ここにも存在できている!」と感動して、全身の細胞が喜んでいるように感じました。とにかく生きようという力、どこからともなく湧いてくる根源的な力を感じられて、いつもより自転車を漕ぐスピードが上がりました。

同時に、「人間に生まれてこれた」ということが、もう、ものすっっっっっっごい有難いことだと直感しました。

人間に生まれてこれたのは、奇跡を何百回重ねても足りない、どれだけ恩に報いようと善行を重ねようと返しきれない、ものすごいことだった。しかも今まで親がちゃんと育ててくれて、大病はせず、大きな地震や事件にも巻き込まれず、現代に生まれたおかげで不当に裁かれもせず、おかげさまで生きている。しかも、哲学している。もう本当に凄い。凄すぎることだと気付きました。

こんな圧倒的すぎる最強の奇跡を頂けて、それで「生まれ変わったら〇〇になりたい」とか「イケメンに生まれたかった」なんてのは、めちゃくちゃ贅沢なことだと感じました。こんな奇跡中の大奇跡は、何度も起こるもんじゃありません。この人生が終わったら、それで終わり、来世は無いでしょう。私という肉体が死んだら、この身体は土に還り、精神的な「存在しているということ」は「何かすごい成り立ち」の中に還って、ただ流れる気のような存在になるんだと思います。来世があったとしても、ホコリとか波とかじゃないでしょうか。また人間だったらどんだけ運いいんだ……宝くじ一等が連続で100回当たるより凄いことです。

何で人間に生まれたのが有難いかというと、人間はこういう風に哲学や修行ができるからです。芸術もできます。何の因果か分かりませんが、とにかく私は人間として地球に生まれさせてもらった。それは勉強とか経験のためかな?と思いますが、人間以外のものに生まれてしまったら、哲学はできません。広い宇宙のどこの誰として生まれるかランダムで、その中で地球の人間ということに生まれることができた。これはもう、マリオで例えるとコインしかないボーナス部屋みたいなもんです。素敵な景色を眺めながら勉強ができる、最高の境遇です。

 

「私」は、大いなる存在の子供なんだ

さっきから、「私は〇〇です」という言い方は避けて書いています。「△△として」とか「成り立ち」とか書いています。どういうことでしょうか。

このブログで何度か書いていますが、「私」という存在が、最初から自力で成り立つわけはないのです。何か巨大な、大いなる存在によって、なぜか成り立たせてもらっている。なぜか私の肉体と周囲の空間がちゃんと分離されているように感じられて、なぜか私の意志というものがあるように感じられる。

「大いなる存在」という単語は誰が考えたのか知りませんが、とても秀逸です。あえて言い換えるなら、「宇宙の女神」とか「すべての仕組みの素」とかになるでしょうか。いや、やっぱ「大いなる存在」が一番分かりやすいな。

「私が、私の人生を、自分で選んで生きている」のではない。そのように感じられるけれど、それはそう「感じるだけ」で、主体というものは実在はしません。そうだと感じているが、実在はしない。「大いなる存在」の気のような流れが、何かの拍子で人間や空気や犬や何やかんやとして、境界線を携えて現れている。

全て「なるようにしかならない」のです。全ては、大いなる存在の中。もし大いなる存在が崩れたら、すべては「気」に還るでしょう。「今この瞬間」が、私の知りえない仕組みによって、永遠に更新されていく。その流れは、誰にも動かせない。それを人間の認知機能で振り返ると「運命」と呼ばれる。その運命の中には、「運命を変えること」や「『なるようにしかならない』を否定すること」も含まれます。

「私」と呼ばれるこの存在は、仮象であり、「大いなる存在」の欠片が蜃気楼のように見えている、そんな状態です。いわば、「大いなる存在」の、無数の子供のうちのひとりなのです。

 

聖者のふりをしなくてもいいんだ

さて、私という現象は、「大いなる存在」という大きなお母さんから生まれたようです。「人間のお母さん」はいますが、彼女は肉体のお母さんです。大いなる存在は、「(仮象として)存在しているということ」のお母さんです。魂、から一段階概念を上げた感じです。

なんだか理由は分からないけど、まだ私という存在は生きているようです。私という存在は、大いなる存在に支えられている。私という存在は、大いなる存在に許されている。「ryomaちゃん、ここにいていいのよ」ということです。やったあ。こうなると、もう自分は自分でいいんだなという気持ちになります。

仏教についていろいろ読んだり調べたりして、悟りとはどんなものだろうとか、お釈迦様の教えとは何だろうとか、考えることがありました。ホームページやブログ記事や本が沢山あって、それぞれに語られている悟りの内容が違うし、その中身もいまいちよく分からない。でも「大いなる存在」に「ryomaちゃん、いてもいいのよ」と許されていると分かったら、そういった「仏の道を極めるべし!」というような方向性が、崩れ去っていきました。

ひょっとしたら、これが悟りの状態なのかもしれない、というかアウトローな悟りなのかもしれない、いやいや未だに預流向なのかもしれない、もはや凡夫なのかもしれない。ですが、そういう階段のお話は、なんでもよくなってきました。あれあれ?

ま、いいじゃん。今はこんな感じだけど、また「仏の道極めるべし!」って思うことになるかもしれないし、ならないかもしれないし、それもまた広い意味での運命なんだろう。肉体が死んだら、大いなる存在のお腹に還るんだと思います。

瞑想をしているからといって、仏教の本を読んだからといって、聖者になろうとしなくてもいいのです。私は私でいいのです。

 

感情も煩悩も、まだまだあるぞ!

現在、瞑想や仏教の勉強を始めて約3ヶ月半というところです。

感情や煩悩は(まだ?)あるのですが、それに囚われることはかなり少なくなりました。

「嬉しい」「悲しい」「怒った」、その感情自体は湧いてきます。ただ、その量が少なくなりました。また、それらの感情を少し味わい、場合によっては少し周りに発表したら、「ま、これ以上わざわざ気分を盛り上げて味わっても、なんにもならないな」ということで、感情を流せるようになりました。短ければ数秒、長くても30分あれば治まります。感情が一過性の幻影だと知ったので、いちいち大事そうに構わなくなったのです。でも、感情は出ますし、それで一時的に苦しんだりもします。

欲もあります。お寿司が食べたいとか、ああしたいこうしたい、こうなったら良いなあ、という欲望ですね。欲望は感情とは違って「ある」の次に「する」が発生するのですが、私の場合は瞑想前もそんなに欲深いわけではなかったので、これについてはそんなに「変わったな」という感じはしません。少し気持ちの波が穏やかになったな程度です。

全然自我が死んでいません。上で「私は仮象だ。大いなる存在の蜃気楼だ」とか言いましたが、感覚として一回分かっていても、やっぱり普通に生活しているので「私が生活しているぞ!」という感覚にはなりがちです。ただ、これも「あっ、でも本当は何も無いんだよね」と、頭というか心でセーブをかけている感じではあります。

ついでに、思考を停止することができるようになりました。それは「あんまり考えない」とか「ぼーっと考える」ではなく、「     」という状態に、意図的に切り替えることができるということです。この無思考状態は、小さい脳みそ時代=子供時代が思い出される感覚です。とても心地好く、穏やかで平和で、同時に鋭敏で、しかもすっきりとした、そして仄かに嬉しい感覚なのです。

 そんなわけで、今までの話を無理やりまとめますと「子供の頃の感覚を思い出した」という感じです。同時に「子供の頃にあるはずだった感覚を取り戻した」とも言えるでしょう。

 

正直なところ、「悟るってどういう感じなのかなあ」「私は悟りの階梯のどのへんにいるのかなあ」などと、結構気になっていたのですが、今となってはその階梯の話は結構どうでもよくなりました(バチが当たる?でも多分、お釈迦様は優しいから、バチじゃなくて諭してくださると思う)。

よく悟った人達?の書いている「自分と周りが一体化する・同じだった」というのも、いまいちよく分からず。多幸感もそんなにすごくはないし、波動とか引き寄せ効果は無いみたいだし、自分のやってる瞑想はこれでいいのか、よくわからない。

「阿羅漢になったら出家せざるをえない」という話も、理屈に納得はしたのですが、「それはある意味逃げなんじゃないか?世俗の中でどうするか考えるんじゃなくて、過ごしやすい環境に移住する方向でいくのか?」とも思ってました。

疑ってばっかですねえ。これでは預流果にもなってません。過去記事で一来果?不還果?とか言っていたのが、恥ずかしいところです。

 

で、これから私はどうしたいかというと、少なくともしばらくは「一般人」として、世俗で普通に生活しようと思います。酒も人間関係もライブも、やりすぎると負担になるのですが、我慢はせずに楽しみます。人間の勉強になると思います。芸術活動もします、時には感情を呼び出してもいいと思ってます。自我や大いなる存在を、観察します。俗世間的な歓楽を避けはしませんが、積極的に享受もしません。自然体でいきます。

同時に、瞑想も続けます。これは、「少しなら」と感情や自我を出していると、いつの間にか取り込まれてしまうのが分かりきっているからです。自我の牢獄から戻ってくるのは大変ですし、そうでなくても瞑想や無思考状態はリラックスでき、集中力の強化にも繋がります。

そういうことなので、ひょっとするとこのブログのメインテーマであった瞑想の気づき関連の話は、しばらく出てこなくなるかもしれません。こればかりは、未来になってみないと分かりませんね。

ではでは、おやすみなさい。