「善い人であること」は善いことだ

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「善い人であること」は、善いことだ。

「当たり前じゃん」と思いますか?これが、案外つまづく。私がつまづいてます。

つまづいてる、と気づけたので、考えていきます。

「善い人」はどういう存在か

「他人の喜ぶことをしたい」

...と、考えるのは、見返りを求めているからじゃないか?」「自分の心はいやらしいのではないか?

→他人に喜ばれる行為は、(私がやると)善ではないのかも

……という感覚が、あるんですね。

特に、このブログに来てくれたり、メタルに惹かれるような人々は、余計こういうフシがあるんじゃないですかね。

 

実際に「見返りが欲しいから善いことをしよう」とは全く思っていないのです。

それどころか、おそらく「自分が“他人の喜ぶことをしたい”と思うなんて、おこがましいんじゃないか」「自分は“善い人”になってはいけないというような気がしている。文章で認識はしていませんが、この「ボンヤリとした、己を制限しがちな感覚」を日本語に翻訳すると、多分私はこんな風に感じています。

とにかく適当な理由をでっち上げて、自分自身に因縁をつける癖が、無意識の髄から染み付いているのです。

 

ただ、これらはあくまで私の主観ですね。主観の中だけで終わったら、ただの自己満足で、それこそ「善」からはかけ離れています。

私たちは、「自分も“善人”になっても良いんだな」と自分自身に許可をする必要があるようです。

治療をしていきましょう。

 

客観的に見て、「善い行い」とはどういう気持ちをもたらす行動でしょうか?

定義としては、ひとまず広く「他人が喜ぶこと」とします。

我々はどのように善行を見て、どういう気持ちで善人と触れ合っているか?です。善人の特徴ではありません。

ぱっと考えてみると、以下のような感じです。彼らと接していると、私は…

  • 穏やかで優しい気持ちになれる
  • なんとなく心が満たされる
  • ポジティブな向上心が生まれる
  • 感動して嬉しくなる
  • 尊敬して前向きな気持ちになる

こんな感じですかね。

とにかく、良い気持ちになります。彼らは私にとって「ありがたい存在」「善の存在」です。人間として生まれた以上、どうしても「善いこと」には「いいかんじ」の感覚を抱くのでしょう。そういう造りなのです。

電車の中で赤ちゃんを優しくあやすお母さんとか、席をゆずる若者とか、教室のドアを後続のために開けてくれる子…などを思い出して書きましたが、こういう優しい心はある程度だれでも持ってます。また「他人が喜ぶことをする」家事や育児や仕事で勝手に達成されますから、特定の人が善人かどうかはあんまり考えすぎない方が良さそうです。

 

とりあえず「善い行いを見ると、穏やかで嬉しい気持ちになる」、言い換えれば「善い行いをすると、周りの人が喜ぶ」ということです。また、「穏やかで嬉しい気持ちに頻繁にさせてくれる人は、善い人」とも言えます。

「行い」の蓄積で「人」になる

さて、「善い行いをすること」「善い人であること」は、ちょっと違いますね。

前者は単発で成り立ちますが、後者は蓄積が必要です。「この人は、大体において善い行いをする、と信頼できる」という、他人からの認識です。

 

「見返り」を求めてたら、他人から「いい人だ」とは中々思われないでしょう。そこに到達するまでずーっと「フリ」でボロを出さずに信頼を得るというのは、非現実的です。というか、そこまで徹底的に「善い人のフリ」をし続けていたら、そのうち本当に善人になります。定義の問題です。

見返り目的の人は、いつもではなく自分に都合の良さそうな時、目先のことだけで善行をするのです。善行自体はいいんですが、流石にバレバレですし、一貫性がなかったら「昨日はたまたま善いことをした人」であって「善い人」ではないですね。

 

かくして、「結果が全て」というか、見返り関係なく「善いことをしたら、善いことをしたということ」「善行を積んで信頼されると、善い人として認識される」というだけの話です。

主観としては「ひょっとすると、私は見返りを求める悪い心で善行を積もうとしているのかもしれない…」と疑ってしまう事もありますが、客観的に考えると、その善い行い自体はただの「善いこと」でした。

自分の心に惑わされるな!

「自分のこの行いは、見返り目当てかもしれない…」「自分は“善人”になってはいけない…」と思って、目の前の為すべきことを放棄することは、善いことでしょうか?

 

まず、「見返り」とは求めるものです。自発的に「これした結果、こうなったら得」という思考を、自発的に走らせるものです。

私たちの陥っている「見返り目当てかもしれないは、この時点でおかしいのです。見返りは求めるものなんだから、「かもしれない」にはなりません。見返りとは積極的に見積もることであって、行いの質や態度による評価ではありません。

せめて意味の通る文章にするならば、他人から見たら、これは見返り目当てに見えるかもしれないですが、そんな曖昧なケースでは見返り目的だと思わないでしょう。「あいつのやってることは、見返り目当て?」と思えるのは、そうとう一貫性が無いとか、いかにも怪しい場合です。

それでも「悪い心がゼロではないかも」と思ってしまうのが(変な)人情ですが、「一切の見返りらしきもの、全部ダメ」ということなら、「来世で地獄に落ちないように」とか「お天道様が見てるから」「情けは人の為ならず」などの、子供に教えるような純粋なこともアウトになってしまいます。

「自分は“善人”になってはいけない」というのも、より抉って書けば「私という人間は、“善い人”として扱われてはいけない存在だ」=「私は絶対悪だ」ということです。絶対悪なのに「目の前にある善行、しようか、どうか」と悩んでいるのです。おかしいですね。絶対悪だったら、今頃とっくに壁の向こう側です。

どれもこれも、変な妄想なのです。

 

かくして、「善い人であること」とは、「“この人は、だいたい善いことをする、と信頼できる”」であって、それは「単なる結果の積み重ね」によるもので、ただの認識でした。

そして、その前提となる行い一つ一つで他人が「穏やかで嬉しい気持ちになる」のです。いいことです。

「善人になったら、ありがたがられる」「自分は善人になる資格があるのか」などという話は、誰かさんに無理やりくっつけられたことです。

 

善いことは、善いことだ。

善いことを沢山すると、善人と“見なされる”けど、それだけだ。

ただそれだけ、です。

私たちは“善人”になっても良い…というか、「善い」は「行い」にかかる言葉であって、「善人」は「善いことを多くする人」という意味ですね。ここが言葉としてややこしい。ある人が「常に善の波動を出している」とか「宇宙から絶対善だと認められた」という話ではないでしょう。

「善い行いに回数制限はないよ」と言い換えると、分かりやすくなるでしょうか?

 

……今まで育ってきたなかで、無意識の不健康な思考パターン・反射感覚がけっこう作られていそうです。やはり自分という現象を過信してはいけない。

まあ、作られてるところを含めて私というか、あらゆるものは作られているんですけどね。しかも「私」はいないですし。 

個人的余談

「善いこと」の目的である「今より良くする」には、2種類あります。

「今もまあまあだけど、もっと良くする」と「今とても大変だから、普通レベルに引き上げる」です。

「より役立つもの」「より楽しいこと」という世の流れがありますが、自分としては「苦しむ人を普通レベルにする」ベクトルのことをしていたいですね。陸に上がってる人に踊りを教えるよりも、溺れてる人を助ける方が先決です。

 

そんでは〜。